Home > Highlighting JAPAN > Highlighting JAPAN 2010年6月号 > 地域の架け橋(仮訳)
1989年にAPECが発足してから20年余りが経過した。今号は、奥村裕一・東京大学特任教授と国際経済の専門家である山澤逸平・一橋大学名誉教授がAPECの歴史と未来についてコメントを寄せた。APEC立ち上げ時、奥村教授は通商産業省(現・経済産業省)で東南アジア地域担当であり、アジアの友人やインテリそうとの対話を通じて、APEC創設のために奔走した。一方、山澤教授は、1993-95年、APEC賢人会議のメンバーであり、草創期からAPECを注視し続ける一人である。
1980年代後半、世界貿易の自由化交渉を進めるウルグアイ・ラウンド交渉が進展を見せず、世界経済はブロック化が懸念されていた。日本政府は世界経済のブロック化への対抗とアジアとの経済相互依存関係を基礎とする新たな枠組みの必要性を認識していた。
奥村教授は、「当時の東南アジア、特にASEAN諸国は日本からの投資増大がひとつの要因となって高度成長が進んでいた。(日本とASEAN諸国との相互依存関係を共存共栄の関係に強化するため、)様々な協力を行う時期に入ったという認識が、新たな枠組み模索の背景にあった」と語る。
このような中、1989年APECは経済協力を中心とする閣僚会議としてスタートを切った。
奥村教授はAPEC発足当初のアジェンダについて、「アジア太平洋地域でオープンな自由化をめざし域内経済協力を強めること、そして域内全体の経済力の底上げを図っていくことだった。日本は人材育成などソフトな協力を重視していた」と語る。言うまでもないことだが、これは現在においてもAPECの重要なアジェンダである。
時代とともに変遷
APECが大きな進展を見せたのは、各国首脳が参加した1993年のシアトル会合だった。「シアトルの翌年には、先進国は2010年まで、その他の国は2020年までにアジア太平洋地域における自由で開かれた貿易を達成するとした「ボゴール宣言」、1995年には自由化・円滑化や経済・技術協力を推進しボゴール目標に至る道筋を示した「大阪行動指針」が採択され、さらに1996年のマニラ会合では、現在の方式である個別行動計画(IAP)、共同行動計画(CAP)がまとめられ1997年からの実施が合意されるなど、非常に勢いがあった」と山澤教授は振り返る。
1997年のアジア通貨危機でAPECの勢いはいったんそがれることになったが、2000年代に入ると次のステップとして貿易の『円滑化や能力構築、そのための個々の国内改革』を軸に据えた。「その柱は基準認証と税関手続き、そしてビジネス移動。こうした現実的な路線変更によってAPECは勢いを取り戻した」と山澤教授。
今年2010年はボゴール宣言に示された先進国の目標達成期限。山澤教授は「現実路線によって、自由化という目標達成では日米加豪NZの5ヶ国+αという状況で未だばらつきがあるものの、APEC全体が円滑化をほぼ達成している」と評価した上で、APECは次の段階に進む必要があると指摘する。
APECの未来
山澤教授が指摘する次の段階とは、APEC域内の貿易自由化のさらなる推進はもとより、テロから大規模な財政・金融問題まで、今日の国際社会共通の課題にどう取り組むかという点にある。2008年11月のリマ会合で、APECは地域単位で国際社会が直面する課題に取り組むことを謳った共同宣言を行った。山澤教授は「環太平洋という大きな地域単位で世界共通の課題に取り組むAPECに世界の期待と注目が集まっている」と、自身も期待を寄せる。
今年11月に横浜で開催されるAPEC首脳会合に向けて、開催国日本は「地域経済の統合を深め、域内全体の成長戦略を策定、テロや感染症対策など『人間の安全保障』を図る」ことを柱とする「横浜目標」を掲げている。その採択に全力を傾けことが、日本の役割である、と山澤教授は指摘する。
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