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Highlighting JAPAN

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特集日本を世界に発信する日本人

人のために尽くす(仮訳)

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多くの日本人が開発途上国で仕事に打ち込んでいる。そこでは、彼らの技術が、地域に多大なインパクトを与えている。「国境を越えた情熱」をもった3人の日本人を紹介する。

視力の恩人

「失明の危機にさらされている人を放っておくことが出来ないのです。自分の技術でそうした人を救えるなら、助けたいのです」と服部匡志氏は言う。「視力を回復した患者の笑顔を見ることが出来れば、名誉もお金もいらないのです」

服部氏はこれまで、ベトナムで1万人以上の人々の治療を行っている眼科医だ。しかも、無報酬である。ベトナムでは眼科の医者や機材の数が患者数に比べ、十分とは言えない。特に、地方における眼科医の不足は深刻で、多くの患者が十分な治療を受けられていない。服部氏がベトナムに行くようになったきっかけは、2001年、日本で開催された学会で出会ったベトナム人眼科医に、「多くの貧しい患者が手術を受けられずに失明しているので、あなたの素晴らしい技術なら多くの患者さんを救うことができる。なんとかベトナムに来てもらえないだろうか」と言われたことだった。それから半年後の2002年4月、勤めていた病院を辞めて、全く未知のベトナムで活動を開始した。

現在、服部氏は日本とベトナムを行き来している。1ヶ月の半分は、日本にある約10箇所の病院を渡り歩きながら診察・手術を行う。そして、残りの半分は、ベトナム保健省などの公的機関の許可のもと、平日はハノイ国立眼科病院で、週末は地方の病院で診察・手術を行っている。

ベトナムでの手術の件数は現在、地方の病院だけで年間約800件に達する。2日で80件以上の手術をこなすこともしばしばだ。地方では白内障の患者がその多くを占める。経済的理由から、病状が悪化してから病院を訪れる患者が少なくない。それゆえ、難しい手術が多い。

「どんなに多くの手術をこなしても、一つ一つの手術の質は絶対に落としません」と服部氏は言う。「また、ただ単に“見える”ようになるのではなく、ベトナム人には眼鏡をかける習慣がないので、裸眼視力で社会生活が送れるようにquality of visionを大切にしています」

服部氏は内視鏡を使った網膜硝子体手術では世界トップレベル。内視鏡を巧みに操作しながら、眼球内部のモニター映像を見ながら行う手術だ。根気と繊細さが必要な手術だが、その技術の高さは、あるアメリカ人に、「君のような技術があれば、アメリカでは億万長者になれるだろう」と言わるほどである。

今、服部氏が力を入れているのが人材育成だ。内視鏡の手術は、モニターを通して、目の中の手術の様子を見ることが出来るという利点がある。ベトナム人医師は、モニターを見ることで服部氏の手術技術を学ぶ、あるいは、服部氏の指導を受けながら手術をすることが出来る。そうした実際の手術を通じて、服部氏はベトナム人医師に惜しげもなく自分の技術を伝えている。

「私はいつも若手ベトナム人医師に、『患者を自分の家族と思え』と言っています。そうすれば、自ずとどうするのが良いのかわかり、手術で無理をせずに私と交代し、合併症を防ぐことができます」と服部氏は言う。「これまで30名ぐらいの医師を育てましたが、そのうち数名は、世界トップレベルの技術を持っていると胸を張って言えます。また、そうした人がベトナム人の若い眼科医を教え始めています。本当に嬉しいことです」

日本でも服部氏を支援する動きが広がっている。2003年に出身大学の京都府立医科大学の有志が「アジア失明予防の会」を立ち上げ、服部氏の活動を支援している。また、2006年以降、日本の病院でベトナム人眼科医を研修医として受け入れるようになり、これまで約10名が日本で研修を受けている。さらに、日本政府の政府開発援助(ODA)による手術機器の提供の他、2006年には日本経団連の資金援助で、眼科治療のための手術室や検査室が装備されたバスが完成した。世界で1台しかないと言われるこのバスは、ハノイ国立眼科病院に寄贈され、都市から離れた農村での患者の治療に利用されている。近年は、自費でベトナムに渡り、ボランティアとして服部氏の活動を直接支援する眼科医や学生も増えている。

「将来はベトナムに、東南アジア各国から眼科医を受け入れ、育成する国際医療センターを設立したいです」と服部氏は言う。「そうすれば、東南アジア全体で、さらに多くの人を失明から救えます」

服部氏の治療を受けた、あるベトナム人患者の声

幼い頃より目の調子が悪く、18歳で服部先生にお会いした時にはすでに左目は失明、右目も光がわかる程度でした。14歳からは学校に通えず、家にこもる日々。今回の治療が失敗したら自殺しようと思っていました。

私の村は病院から遠く、病院までの交通費だけでも父の年収の5倍かかります。それでも今回は無料で治療を受けられると聞き、父がどうにか病院へ連れて行ってくれました。

服部先生の診察で私の目は増殖硝子体網膜症だとわかり、手術を受けました。

そして今、目が見えます!家族の顔が見えます。一人で外に出ることもできます。目が見えるということは、単に「ものが見える」以上の希望の光を私にもたらしてくれました。

服部先生、そして治療費をご支援下さった日本の皆さん、本当にありがとうございます。


ビジネスと柔道で「革命」を起こす

東アフリカのタンザニアの政治経済の中心都市、ダルエスサラームから飛行機で約20分、インド洋に浮かぶザンジバル島に、地元の人々に「カクメイジ」と呼ばれる日本人がいる。1987年、「革命」を志してザンジバルに渡った、島岡強氏だ。

「武力で政権を倒すだけが『革命』ではありません」と島岡氏は言う。「人々が働く場を得て、経済的な自立をする。これも『革命』です」

島岡氏は幼少の頃から、父親に「日本を出て、貧しい人々のために命をかける本物の革命児になれ」と諭されて育った。そして、島岡氏は19歳で日本を出て、フリーライターとしてアフリカなど世界54カ国を回った後、23歳の時に、再びアフリカ入りする。偶然、ザンジバルで出会った漁師の住民から依頼を受け、自らの資金を使って、木造船「カクメイジ1号」を造り、漁業を始めた。政府や企業の支援も全くなく、人々のためだけに働く島岡氏に対して、当初、疑惑の目を向ける人も少なくなかった。しかし、私利私欲のない島岡氏のまわりに、次第に多くの人が集まるようになっていく。現在では、「カクメイジ号」6隻による漁業の他、トラックを購入し運送業も行い、約200名のタンザニア人を雇用している。

さらに、島岡氏は2000年に日本で貿易会社を立ち上げ、タンザニアのインスタントコーヒー「アフリカフェ」のフェアトレードによる日本への輸出も行っている。「アフリカフェ」は30年以上の歴史を持つブランドで、タンザニアのブコバという地方で無農薬によって栽培されたコーヒー豆が原料だ。この他、タンザニアの紅茶、スパイスなどの食品、カンガ(色彩豊かなアフリカの布)、雑貨などの製品を、百貨店や大阪のギャラリーショップ、インターネットで販売している。

「タンザニアに長年暮らす中で、コーヒー豆、綿花、カシューナッツといったタンザニア産の原材料を使って海外で加工された製品を、何倍もの値段で輸入するというタンザニアの状況を変える必要を感じました」と島岡強氏は言う。「そのためには、タンザニア国内で製品化し、付加価値を付けて輸出し、外貨を得なければならないと考え、貿易会社を設立したのです」

そうした「メイド・イン・タンザニア」製品に加え、島岡氏は、タンザニア発祥のペンキアート「ティンガティンガ」の日本での販売も始めている。ティンガティンガは、その明るくカラフルな作風がタンザニア国外で人気を集めている。しかし、ティンガティンガのアーティストが、必ずしもその評価に見合った収入を得られていないと感じた島岡氏は、30名以上のアーティストの作品を毎年、計約1000枚、定期的に買い上げることを始めた。そして、2008年から毎年、アーティストとともに来日し、日本各地で展覧会を開催・販売している。アーティストは、会場で公開制作も行い、その鮮やかな色彩アートの制作過程を日本人に披露している。今年は東日本大震災で被災した宮城県仙台市で初めて展覧会が行われ、収益金の一部は、義援金に充てられた。

「アーティストたちは、“日本人は自分達の絵を本当に良く理解してくれる”と言って喜んでいます」と島岡氏は言う。「実際に、日本人と交流することで、彼らのやる気も非常に高まります」

ビジネスは拡大しているが、島岡氏の生活は変わらない。ザンジバルに渡った頃に住み始めた、古い公団団地の一室に今でも暮らす。自分で購入した船やトラックも、すべてタンザニア人の名義になっている。 そして、島岡氏が雇用作りに加え、タンザニアで取り組んできたのが、島岡氏が小学校から始めて黒帯(三段)の腕前を持つ柔道の指導だ。島の若者に柔道を教えて欲しいと頼まれたのが始まりだ。しかし当時のザンジバルには柔道場はもちろん、畳も、柔道着もなかった。しかし、島岡氏は現地で入手できるものを活用し、柔道を教え始めた。柔道着は、船の帆用の布を使って仕立て、畳は、米やじゃがいも用の麻袋を紐で縫い合わせて作った。練習場は、屋根もない砂浜や農場の一角だ。教え子のほとんどが、空手と柔道の違いも分からなかったが、島岡氏の熱心な指導で、実力を伸ばしていく。2002年には日本政府の政府開発援助の支援で、ザンジバルに本格的な武道館が完成している。

島岡氏はタンザニアの柔道のナショナルコーチに就任、2003年からタンザニアのナショナルチームは国際大会に出場するようになった。そして、2011年にナショナルチームは東アフリカ大会で優勝という快挙を成し遂げた。今現在、最初の教え子達がザンジバルで道場を持つようになり、7つの道場で約1000名が柔道を学んでいる。

「柔道をしなければ、ザンジバルを出る機会も無かった教え子が、国際試合を通じて、視野を広げていく姿を見るのは、とても嬉しいです」と島岡氏は言う。「まだタンザニアは柔道でオリンピックに出場した経験はありませんが、次のオリンピック出場は十分にねらえますね」


ハーブを使ったものづくり

カンボジアの世界遺産、アンコールワットは、1年を通して海外からの観光客で賑わう。アンコールワットに隣接するシェムリアップも、ホテルや土産店が数多く並び、観光拠点として栄えている。そのシェムリアップの郊外に、クメール語で、「伝統医療の医師」を意味する「クル・クメール」という名の工房がある。緑豊かな工房では、現地の女性社員がハーブを刻んだり、乾燥したりといった作業をしている。工房の一角では、そうして加工されたハーブを使った石鹸、入浴剤、ハンドクリームなどの商品が売られている。

「カンボジアでは珍しい『かわいい』お土産として、日本人の女性に非常に人気です」と「クル・クメール」のオーナーの篠田ちひろ氏は言う。「こうした商品を通じて、カンボジアの伝統を皆さんに知って欲しいのです」

篠田氏は、大学生時代にカンボジアを旅行し、貧しいながらも生き生きと暮らす人々に魅了され、2008年からカンボジアに移り住み、日本人が経営する雑貨店で働いていた。彼女は、カンボジアの農産品を使った起業を考えていたが、そこで偶然にも、出産直後の友人が行っていた「チュポン」と呼ばれる伝統医療を目の当たりにする。「チュポン」は、小さなテントの中で、ハーブのたくさん入ったお湯を煮立たせ、体を温めるという一種のスチームサウナだ。出産後の体力回復に効果があると言われている。この「チュポン」を見た時、篠田氏はハーブを使って何か出来るに違いないと閃いたのだ。

「以前から、カンボジア人が誇れるものづくりをしたいと考えていました」と篠田氏は言う。「ハーブを使えば、ハーブを栽培する農家の収入にもつながります」

カンボジアのハーブを使った伝統医療は、1000年以上の歴史があると言われる。薬草は800種類以上あり、農村の多くの家の庭にはハーブが植えられているのだ。それは、料理の材料や、打撲や切り傷といった治療に使われている。また、多くの村にはハーブを使った伝統医療の行う医者がおり、住民の治療にあたっている。篠田氏は、そうした医者の家に赴き、ハーブの種類や使い方を学んだ。

そして2009年、篠田氏は農村からカンボジア人女性4名を採用し「クル・クメール」をスタートさせた。オープン当初は、商品の品質を一定にすることが非常に困難であったという。篠田氏は、そうした失敗を単に責めるのではなく、失敗の解決方法を社員自身が考え出せるように、彼女たちの意見を粘り強く聞き出すことに努めた。すると、次第に社員からの意見も増え、品質も改善していったのだ。

また、篠田氏は、社員の生活改善にも目を向けている。その一つは、貯金だ。カンボジアでは貯金という考え方があまり一般的ではないので、篠田氏は給与の一部を貯金することを社員に義務づけている。当初、社員は貯金に前向きでなかったが、ある社員の母親が病気になった時、貯蓄したお金を使い、母親を治療出来たことをきっかけに、他の社員も貯蓄を積極的にするようになった。

「結婚してシェムリアップを離れることになった社員が会社を辞める時に、貯金を使ってミシンを買い、夫と引っ越す村で、ビジネスをしたいという夢を語ってくれました。それを聞いて、とても嬉しかったです」と篠田氏は言う。「ここで働いたことが、彼女の自立に少しでも貢献出来ればと願っています」

また、「クル・クメール」のビジネスを通して篠田氏は、社員だけではなく、出来る限り多くの農家の生活を支えようとしている。例えば、ハーブは、複数の契約農家から定期的に購入するほか、農村の女性に、椰子の葉で商品を入れる箱の製作を依頼し、買い取っている。

現在、「クル・クメール」は工房の他に、シェムリアップ市内に直営店を出店する一方、インターネットによる通信販売も行っている。「クル・クメール」の商品が地元の高級ホテルのアメニティグッズとしても採用された。

「社員は今、8名ですが、さらに2名ぐらいは増やす予定です。さらには、商品を増産して、カンボジア国内外にもっと販売していきたいです」と彼女は言う。

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