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Highlighting JAPAN

温泉地の竹細工

温泉リゾート地である大分県別府市は、日本に残る最後の竹編工芸地域である。

岩尾一郎さんは、二階建ての工房の床に座り1.5メートル長ある細い竹材の先端にナイフで割れ目を入れ、かすかに湿らせた竹材の端を足の親指と第二趾の間にしっかりと挟み、歯と親指、人差し指を使って巧みに竹を縦割りにしている。ほんの数秒で、彼は二枚の0.4ミリ厚材を切り出して、妻の淑江さんと同僚の谷脇さつきさんに手渡すと、その二人はそれらを松茸生産会社から受注した籠へと器用に編み上げていく。

階下では、工房職人の三沢俊一さんが「皮磨き」(文字通りには「木の皮磨き」)と呼ばれる工程で、竹の外皮を剥ぐ作業に没頭している。彼の説明によると、真竹材は、煮沸加工で油抜きされ数週間乾燥されている。そして、扱いやすい長さに切断され、表面が滑らかになるよう剥がされる。その後、この真竹材は大分県別府市にある岩尾さんの工房である「岩尾竹籃」で岩尾さんと編み職人が作業を行うために二階へと届けられる。別府の竹細工は歴史が長く、日本で二番目に古い歴史年代記「日本書紀」には、第12代景行天皇(71-130年)の料理人が別府訪問中に現地産の竹を使って籠を編んだと記されている。

岩尾さんによると、当初、竹から作られるそうした実用品は農民や漁民が自分たちの物を持ち運んだり保管したりするため編んでいたが、その後日本が1800年代後半に鎖国を終わらせると、竹細工の産業が成長し始めたという。

このような歴史の流れは、1870年代頃に温泉リゾート地として繁栄した別府にはとりわけ当てはまることだった。観光実業家の油屋熊八氏の巧みな戦略により、効能の高い別府の温泉に浸ろうと、新設された鉄道線や航路で大阪から湯治客がどっと押し寄せたのだ。

別府はほどなくして建設ブームとなったが、高級旅館の需要に応えられる建具師や指物師がほとんどいなかったため、技術専門学校が20世紀初頭に始めた学科で、竹を使った木工と工芸を専門に教えた。

「旅館で特に求められた品物は、床の間や書見台に飾る高品質の竹製花器と米などを保管する籠でした」と別府市竹細工伝統産業会館の学芸員である皆本博之さんは言う。「そうした品物は、旅館がお客様を歓迎する雰囲気を醸し出す『しつらい』の象徴となったのです」

皆本さんの説明では、土産物としての竹製品需要がほどなくして高まり、別府の重要な産業に成長していったという。

そのため、別府の竹細工職人数は増え、岩尾さんによると1919年に一郎さんの祖父が岩尾竹籃を、最も創業が早かった工房の一つとして創設し、一時期には20人が雇われていたという。

子供だった一郎さんは、家業を手伝い、竹製の細い部材を数えたり、竹材が「磨かれる」際に押さえつけたりした。

十代の頃に彼は、当初の専門学校から分校化した大分県立竹工芸訓練センターで竹細工を勉強し始めた。

「父からはこの仕事はきついぞと言われましたが、一旦始めると振り返ることは決してありませんでした」と岩尾さんは語る。

産業規模は過去30年間で大きく縮小し、かつては人気があった竹編工芸を営んでいる場所は今や日本全国でもわずか三地域だけとなったが、この工芸が消滅していく兆しは全くないと岩尾さんは言う。地元の技術専門学校でこの工芸を学ぶため日本中から学生たちが来ており、地元住民も別府市竹細工伝統産業会館で実施する講習に参加している。「卒業生の中には、そのまま続けて正規の職人になる人もいます」と講師の大谷健一は言う。「竹細工は、地元の人たちの精神に深く浸透しているのです」