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Highlighting JAPAN

日本磁器のふるさと

九州北西部の陶工は、世界的レベルの質の高い磁器を400年にわたって作ってきている。

九州の北西沿岸は日本海を挟んで朝鮮半島と面しており、朝鮮や中国の文化の入口であった。陶磁器もその一つである。

17世紀初頭、朝鮮人陶工が磁器の原料となる陶石を有田の泉山(佐賀県有田町)で発見したことがきっかけとなり、この地域を中心に磁器が生産されるようになった。

「磁器の原料となる陶石だけでなく、九州北西部は薪や水も豊富でした」と長崎県北振興局の井手美都子氏は言う。「磁器を作るための条件がそろっていたのです」

江戸時代(1603-1867)、九州北西部の陶工は様々な種類の磁器を製作した。例えば、今日までその直系の子孫の陶工が製作を続けている、酒井田柿右衛門である。初代酒井田柿右衛門(1596-1666)は色絵を施す技法、赤絵を開発した。その後17世紀後半には、濁手と呼ばれる乳白色の素地に余白をいかして繊細な絵付けを施した「柿右衛門様式」と呼ばれる有田焼が誕生した。

18世紀には赤や金の絵の具を鮮やかに使った豪華絢爛な「金襴手様式」の有田焼が広まった。

また、大川内山(現在の佐賀県伊万里市)では佐賀藩の御用窯がおかれ、鍋島焼と呼ばれる磁器が生産された。鍋島焼は将軍家へ献上される高品質の磁器であった。

鍋島焼の一つが、藍色の染付の上に、優美なデザインの絵を付ける色鍋島である。この伝統を受け継いだ磁器が現在も生産されている。

三川内(現在の長崎県佐世保市)では、平戸藩の御用窯が置かれ、白磁をベースに繊細な透かし彫りの彫刻を施すなど、その技巧性の高さが特徴の三川内焼が作られている。それら透かし彫りの磁器は現在も生産されている。

波佐見(現在の長崎県波佐見町)では、150mを越える登窯が作られ、磁器の大量生産に成功した。これにより、磁器が17世紀末までに庶民の手にも渡るようになった。

江戸時代、こうした九州北西部で生産された磁器の多くは、積出港である伊万里港から国内各地へと運ばれたため、一般的に伊万里焼と呼ばれた。九州北西部で生産された大量の磁器は東南アジアやヨーロッパなどの海外にも輸出された。18世紀前期まで磁器生産が行われていなかったヨーロッパで、日本の磁器は高い人気を誇るようになった。

「日本独特の美しく、技巧性の高い紋様や彫刻がヨーロッパの人々を魅了しました」と井手氏は言う。「ドイツのマイセンの磁器生産やデザインにも影響を与えたと言われています」

現在でも、磁器の生産は佐賀県や長崎県の各地で続いている。有田町では100を越える窯元が磁器作りを行っている。その一つ、1753年に有田で創業した源右衛門窯は、江戸時代の有田焼の伝統を引き継ぎながら、美術工芸品、日常食器など様々な製品を生み出している。また、「古伊万里」と呼ばれる江戸時代に作られた有田焼が、同じ敷地内にある古伊万里資料館で展示されている。

これら陶磁器の主な産地では、春と秋の2回、「やきもの市」が開催され、様々な陶磁器も販売されている。中でも有田町で4月下旬から5月上旬にかけて行われる有田陶器市は100年以上の歴史があり、毎年100万人以上の人で賑わう。

「それぞれの町には、レンガ造りの煙突、ドンバイ塀、登窯跡などが残り、やきもの作りの長い歴史を感じることができます」と井手氏は言う。「今後も陶磁器を通じた海外との交流を続けていきたいです」