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Highlighting JAPAN

稀なる輝きを求めて

明珍宗理氏の一族は、850年以上にわたって鍛鉄の仕事に携わり続けている。明珍本舗が生み出す製品は時代とともに変化してきたが、その仕事には常に変わらない特徴が存在している。

明珍宗理氏のひっそりとした工房にたどり着くには、歴史的な姫路城の北東にある伊伝居地区を歩きながら、耳を澄ましてみるのが一番よい。

繰り返し鉄を鍛える鎚音が聞こえなかったとしても、宗理氏と三男の敬三氏が創り上げる工芸品の奏でる繊細な音色が聞こえてくるはずだ。その音の先が兵庫県姫路市の明珍本舗である。

「火箸風鈴」として知られる工芸品そのものは、見た目は質素なものである。それは、先がとがっていない長い釘のようであり、実用的でない重い箸のようなものである。

しかし、この独特な鍛鉄の風鈴の音色は、国内外から称賛の声を集めており、その中には、スティーヴィー・ワンダーや、エレクトロニック・ミュージックのパイオニア、冨田勲といった音楽界の巨匠も含まれている。

事実、冨田氏はその風鈴に魅了されるあまり、2016年に亡くなるまでの40年以上にわたって明珍本舗の工房を訪れていた。「冨田先生は、自分の目標は、この風鈴のような音色の音楽を作ることだとおっしゃっていました」と宗理氏は語る。そして「あのように偉大な方にそう言っていただけたことに、大変恐縮しました」と続けた。

この風鈴が進化してきたストーリーは、風鈴そのものと同じくらい独特である。明珍家が風鈴の製作を始めたのが必ずしも偶然ではなかったとしたら、それは間違いなく必要に迫られてのことであった。

「火箸」は文字通り「火の箸(fire chopsticks)」で、明珍家が1860年代から作り続けているものである。

「私が子供の頃は、まだ火鉢で暖をとっていましたので、熱くなった炭を拾うための火箸を作っていました」と、57年前に父のもとで働き始めた宗理氏は言う。「その後、1960年代に石油ストーブが広まり、火箸の需要は次第に減っていきました。本当に、生きるか死ぬかの状況でした」と宗理氏。

明珍家が窮地に陥ったのは、これが初めてではなかった。宗理氏の祖先は850年以上にわたり鍛鉄に携わっており、かつては、武士や大名の甲冑を製作していた。

しかし、明治維新(1868年)により日本の封建制度は廃止され、それから数年のうちに甲冑の需要はなくなった。

その結果、明珍家は新たな事業を模索することになり、一族が培ってきた鍛鉄技術をどうしても受け継いでいきたいという思いから、その技術を応用して、火箸という、鉄製の道具を製作することにしたのである。

そして、同社は、近年、風鈴の製作という再度の製品見直しに至り、必要は発明の母という古い格言の正しさを改めて証明することになった。

「よく鍛えた鉄は、叩くと素晴らしい音が出ます。大正時代(1912~1926)には、火箸の美しい音色について述べた小説まであったほどです。」と刀鍛冶である次男の宗裕氏は説明する。「このため、私たちは、生き残るために事業の対象をあらためて見直しました。しかし、私たちがどのような方向に向かっても、音色は弊社にとって重要な要素であり続けてきています」と宗裕氏は言う。

素晴らしい音色を響かせる風鈴を作るのは容易ではない。

「こうした風鈴は、形が美しいだけでは十分ではありません」と宗理氏は説明する。「最高の音質に到達するためには、鉄を鍛える際に最適な温度にする必要があります。私が温度を判断する基準は色だけです。鉄が白っぽくなったら、木炭を燃料とする炉から取り出して鍛え始めます。これが音色を出す秘訣です。温度が低すぎる段階で鉄を鍛えると、固くて鈍い耳障りな音になってしまいます」と宗理氏は言う。

納得のいく音色のものを作れるようになるには、厳しい修行を7~8年間積む必要があると、同氏は付け加える。

鎚の先の部分が広く、若干斜めになり、鎚の表に一本の細い線の打ち跡が走っていれば、それが経験を積んだという証だ。これは、職人が火箸風鈴を鍛えるとき、いかに正確に打っているかを示している。

「大変きつい仕事ですけれど、私はこの質素な家に生まれましたから」と宗理氏は語る。彼は敬三氏とともに、最近、商品ラインに加えられたチタン製を含め、年間約2,000セットの風鈴を製作している。

「しかしこの仕事をやめようと思ったことは一度もありません。75歳になった今でも、ここに座り、こつこつと鉄を鍛えているのが、とても楽しいです」。

伝統の技術を守りながら、時代の変化とともに進化させてきた明珍一族の姿こそは、まさに日本の長寿企業の神髄を物語っている。