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Highlighting JAPAN

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連載 47の物語

長崎

長崎市と軍艦島(仮訳)



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九州にある長崎県の県庁所在地、長崎市は、長い間アジアやヨーロッパとの貿易や交流の架け橋となってきた。市内の建築物、とりわけ江戸時代末期、鎖国の日本において長崎にいる外国商人たちで急成長した地区に建造された大浦天主堂は長崎の多彩な歴史を物語っている。大浦天主堂をはじめとするその他のエレガントな教会は、崇福寺や興福寺などの見事に保存されている中国建築の寺院と並存し、異国情緒を漂わせている。

長崎を訪れる人々は、日中はかつてヨーロッパの商人たちが暮らしたオランダ坂を歩き、長崎平和公園の緑を楽しみながら、中華街の喧噪の中本場の味をつまみ食いすることもできる。一方夜には、長崎の夜景はモナコや香港の夜景に匹敵するといわれるほどの美しい夜景を堪能できる。

華やかな長崎市内から少し離れて、長崎港から19キロほど離れた海上に今は無人島となった端島がある。「軍艦島」としても知られる端島は近年多くの観光客が訪れる。軍艦島という別称は1200メートルの島の周囲を固める岸壁と、補強されたコンクリートの建築群、高くそびえる煙突からなる姿が、軍艦に似ていることに由来する。

この小さな島は面積63,000平方メートルほどしかなく、もともとは良質の石炭が採れる島として知られるようになった。1974年にその歴史を閉じるまで85年に渡って操業を続けてきた。

もともと端島は急峻な水成岩の小さな島で、南北に320メートル、東西に100メートルほどだったと考えられている。しかし、石炭の採掘が本格化すると、端島は、急増する居住空間の需要を満たすべく6度に渡って埋め立て工事が行われ、1931年に現在の大きさになった。

高い給料に魅せられた労働者たちが日本中から集まり、その人口増加を支えるために島は住宅を上部へと拡大させることが余儀なくされた。長崎の海岸沿いに停泊する巨大な客船のごとく、端島には巧妙に作られたトンネルや通路、最新技術を駆使したコンクリート住宅、ダンスホールやバー、さらには学校、寺、市場に野菜畑まで有していた。当時、その人口密度はなんと現在の東京の9倍だったという。

坑夫たちは気温30℃、湿度95%の中、過酷な労働に従事し、何百万トンもの石炭を掘り出した。1941年一年だけで41万1,100トンを採掘している。採掘した石炭の大半が九州八幡の製鉄所に送られた。端島の石炭は灰分や硫黄分が少なく、最高品質の石炭だったといわれる。この島は日本の急速な工業化を支えた超近代的な原動力だったのだ。

エネルギー政策の転換に伴い、炭鉱は閉山し、無人島になってから久しいが、端島の荒涼とした、時代を感じさせるたたずまいは、毎年多くの観光客を惹きつける。日本では最近、この国の工業化に重要な役割を果たしたこの島をユネスコの世界遺産に指定する申請をした。端島は日本の近代史における鍵となる時代を象徴するだけでなく、小さな島国が世界の経済大国となった力を示すかのように存在感を放っていた。