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Highlighting JAPAN

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日本のスポーツ

車いす陸上の絶対王者(仮訳)

日本人初の夏冬パラリンピックでの金メダリスト、土田和歌子選手。活躍の軌跡と、リオでの金メダル獲得に賭ける思いを聞いた。

2012年夏季ロンドンパラリンピック、女子車いすマラソン。24キロ地点で、土田和歌子選手のレーサー(陸上レース用車いす)が転倒、観客から悲鳴が上がった。誰もが、2008年夏季北京パラリンピックで土田選手の身に起きた悲劇的なクラッシュを想起した。

しかし土田選手が咄嗟に感じたのは「大丈夫、怪我もしていない、まだ行ける」。アスリートとしての体感が、彼女を再び起き上がらせた。土田選手の不屈の精神に、観衆から大きな歓声が湧き上がった。「あの時の歓声を忘れない」と彼女は語る。

日本人初の夏冬パラリンピックでの金メダリストである土田選手は、2013年10月に12年ぶりに車いすマラソン公認世界記録を更新した世界記録保持者でもある。今年で41歳、競技人生は20年以上に及ぶ。

17歳のときに交通事故で脊椎損傷を負い、車いす生活になった。社会復帰を手探りする中、リハビリの一環で出会ったのが、ソリに座ったままスティックを使って氷の上を滑るアイススレッジだった。外国人講師に「素質がある」と認められ、1994年冬季リレハンメルパラリンピックに出場するも惨敗。それまでもスポーツの得意な少女ではあったが、初めて世界のレベルを目の前にし、「メダルを取りたい」と挑戦魂に火がついた。

「私は、スポーツで自分の居場所を作る」。1998年冬季長野パラリンピックを目指して猛特訓を重ね、1000メートルと1500メートルで念願の金メダルを獲得し、1500メートルでは世界新記録も樹立した。「障害者競技は、障害がある時点で誰しもチャンスがあるという意味で間口が広い。でもその先には努力が必要で、表彰台に立つのは生半可ではない」と、土田選手は自らの経験を振り返る。

アイススレッジで成果を収めた土田選手は、自信のある持久力を生かし、車いす陸上に挑戦を始めた。夏季の花形競技である陸上は競技人口が厚く、車いす陸上のスピード感にも魅了された。初めて参加した夏季大会である2000年夏季シドニーパラリンピックでは「氷上と陸上の違いを痛感した。規模や観衆の歓声の大きさに緊張感や怖さもあったが、その場にいられる喜びのほうが強かった」。2004年夏季アテネパラリンピック、女子5000メートルではついに金メダルを獲得。日本人初の夏冬大会金メダリストとなった。

土田選手にこれまでのレース人生のハイライトを尋ねると、「悔いのほうがよほど多い」と答える。彼女は、すでに手の届いた栄誉に安住しない、生粋の挑戦者だ。結婚出産という大きなライフイベントを経験し、死に物狂いで臨んだという2008年夏季北京パラリンピックでは、5000メートルでの大規模なクラッシュで重傷を負った。

それを乗り越えた2012年夏季ロンドンパラリンピックでは、日本初の女性の選手団主将として大役を果たした。それでも彼女は満足しない。まだ見ぬ「自分で納得できるレース」、そして「車いすマラソン金メダル」を目標に、2016年リオ大会を目指している。

日本のパラリンピアンは「水泳やゴールボール、車いすテニスなど、注目を受ける競技や若手実力選手も増えてきたが、底上げはまだまだ」と語る。2020年東京大会開催を契機に、パラリンピックにも関心が高まるのを期待しているという。

「観衆の声援は、選手にとって大きな力」と土田氏。「辛いトレーニングや怪我を克服して、結果を出せた時の喜びは何物にも代えがたい。障害者競技は選手一人ではなく、周囲や家族のサポートによって成り立っている。一緒に喜べる人たちがいる、それがあるから頑張れるんです」。




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