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Highlighting JAPAN

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神戸の街の一員となって20年以上が経つレストラン経営者のラジャ・デワンさんは、美味しいインド料理と自身の語学力、そして人々との繋がりと役に立ちたいという強い気持ちを通じてコミュニティを築いている。

ラジャ・デワンさんは、右へ左へと人々に挨拶しながら神戸市北野町の通りを歩く。ある男性に対しては「ヘイ、ボス!」と声をかける。小さい女の子には、名前を呼びかけ「元気?」と尋ねる。市場で列に並んでいる別の男性には手を振り、店の前に立つ女性店主にも挨拶する。地元に住む経営者は街角で彼を抱擁する。人々の声が合唱となって返ってくる。「ラジャさん!こんにちは!」

デワンさんはこの界隈の有名人だ。インド料理店『ガネーシャガル』のオーナーである彼は、国際色が豊かなことで知られるこの地域に20年以上住んでいる。彼は、人々が食事のためにインド料理店で過ごす陽気な時間だけでなく、災害のときにもよく見かける人物だ。ボランティアの消防団員という一面も持っているからだ。

1988年、インドから初めて日本に来た若かりし頃のデワンさんは、海外販売の仕事に就くため東京に降り立った。すでに英語とヒンディー語、広東語、そして若干のタイ語を習得していた自身の言語レパートリーに新たに日本語を加えるべく、彼は懸命に勉強した。その1年後、彼は神戸市に移住した。そこでは、彼の叔父が北野町でレストラン事業に携わっていたのだ。叔父と一緒に働く一方で、彼はマツダでの仕事も始め、勉強や仕事のために来日したインド人エンジニアたちの通訳を務めた。

デワンさんが未来の妻となる女性と出会ったのもこの頃だ。2人は1992年に結婚し、1994年には男の子が生まれた。それからわずか6カ月後となる1995年1月、大震災が神戸の街を襲った。マグニチュード7.3の阪神淡路大震災は、6,000人以上の人々の命を奪った。その運命的な日の朝、早い時間から働いていたデワンさんは、マンションの35階に住む妻と幼い息子の元へと急いだ。奇跡的に彼らのマンションはその場所に立っており、2人とも無事だった。

それから数カ月経ち、神戸市は徐々に震災から復興し始めたものの、市内の多くの場所は惨憺たる有り様で、復興の進行状況もまばらだった。北野町ではまだ多くの建物が壊れたままとなっており壊滅状態だったが、デワンさんは無傷で安定したビルを1棟見つけた。「ここを使っていい。家賃は払いたい分だけ払ってくれればいい」とそのビルのオーナーは彼に伝えた。「頼むから、何かをやってくれ!」。

象の頭を持つヒンドゥー教の女神から名付けられた『ガネーシャガル』は1996年前半に開店した。このレストランにはガネーシャのための祭壇が備え付けられている。始まりの神であり、障害を取り除く神であるガネーシャは、レストランにとってもこの地域にとってもうってつけのシンボルだった。

このレストランはほどなくして学生や近隣住民たちから人気を博した。そして海外からこの地域へ来たばかりの移住者や観光客たちが食事やアドバイスを求めて頻繁にやってくるようになった。デワンさんは、コネクションを作ったり手紙を読んだり、地域の人々との間で簡単な通訳を務めたりして、そのような人々の力となった。

彼にとって、人助けは苦ではないという。「これはお金のためではありません」と彼は語る。「単に私の仕事なんです。神様が私を呼ぶようにと彼らに言ったのかもしれません」。レストランを開店してから数年後に彼の娘が生まれた。学園祭があると、彼はよくパンや野菜、カレーが入ったミニサイズの食事を作って学校の子供たちに寄付した。子供たちは喜んでその美味しい軽食を食べた。

2000年頃、日本とこの地域にしっかりと定着したデワンさんは日本国籍を取得し、彼のパスポートはようやく妻や子供たちのパスポートと同じものになった。「インドに戻りたいとは思いません」とデワンさんは話す。「私の家族がここにいて、みんなもここにいるからです。そして、私もここにいます」。レストラン事業が成長していく間も彼は通訳の仕事を続け、通訳として5年間務めた三菱自動車などの大企業のほか、神戸市長やインドの総領事館、インド大使といった要職に就く人々や地域住民にも貢献した。

2013年、震災の記憶がいまだに残るこの地域にお返ししたいという気持ちから、デワンさんは消防団員になるための訓練を受けた。彼はこの地域のことをよく知っているため、ルートを決定したり、交通を取り締まったり、消防車を現場へ案内したりすることができる。また、彼は皆のことを知っており、多くの言語を話せるため、地域住民に危険を知らせることもできる。

なぜこれらのことを行っているのか彼に尋ねると、話はいつも家族へと戻ってくる。「私はこの地域のために何かをしたいと思っていました。そうすることで子供たちは誇りに思うことができるからです」と彼は語る。「子供たちは北野町で育ちました――私もまたそうなのです」。