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Highlighting JAPAN

回り続ける読谷のろくろ

沖縄県の壺屋焼の作り方は、その始まりである400年前から変わっていない。

島袋常秀氏の指は見るからにたくましく、実際に行っている繊細な作業には不向きなように見える。ところが、ほんの数秒間のうちに、その指は器用に茶褐色の粘土をこねて、手品師が新聞紙を何枚ものお札にしてしまうかのように、きれいな対称形の急須を作り上げてしまうのだ。

島袋氏が裸足で回すろくろの回転の速さと頻度は、ろくろの上の粘土を引っ張る動作と完璧に連動している。

沖縄県の読谷村の工房で創作活動を行っている島袋氏(68歳)は、「爪先から指先まで全身を使って一つ一つ仕上げていきます。全身の自然なリズム感で作品を作っていきます」と語る。

島袋氏は45年前に陶器作りを始めてから、同じ琉球松の「蹴ろくろ」を使い続けている。当時、島袋氏の工房は壺屋焼の発祥の地である那覇にあった。

壺屋焼の起源は17世紀初頭にさかのぼる。九州の薩摩藩の大名が朝鮮系の3人の陶工を、当時、琉球と呼ばれる独立王国だった沖縄に派遣した後、沖縄は陶器生産の中心地へと発展していった。この3人の陶工は1616年に湧田に窯を構えたが、彼らの窯は1682年に那覇の中心街である壺屋へと移転した。その後、数百人の陶工が壺屋に集まり、いくつもの袋を備えた窯を使った「登り窯」を数十個造った。

1960年代から1970年代にかけて那覇が拡大する中で、窯から出る大量の煙は健康に危害を及ぼすと考えられるようになり、壺屋で創作活動を行う陶工たちは沖縄の人口の少ない地域へと移住せざるをえなくなった。その中には那覇から北東へ約30kmの読谷村も含まれており、島袋氏自身も読谷村に移住し、最初は金城次郎氏の共同窯に加わった。

陶器のデザインやスタイルは時代に合わせて変わってきているが、島袋氏と、彼の工房で一緒に働く6名の陶工が実践している壺屋焼作りの工程は400年前と変わらない。

「壺屋焼が他の焼き物と違うのは、他の焼き物が釉薬を塗る前に素焼きするのに対して、壺屋焼は原料の粘土に直接釉薬を塗るという点です」と島袋氏は語る。島袋氏は以前、沖縄県立芸術大学で陶器の講師を行っていた経験があり、現在は壺屋焼の陶器組合の理事長を務めている。「素焼きでは時間を無駄にできないため、作業工程全体を比較的素早く進める必要があります」と島袋氏は語る。「その一方で、ほんのわずかなシミも出やすいのです」

一般的に言って、壺屋焼は荒焼(釉薬なし)と上焼(釉薬あり)に大別される。荒焼の典型例は、沖縄のどこにでもある建物の入り口と屋根に飾られている地元の伝説の守護獣シーサーや酒壺だ。また、上焼の例としては、日常生活で使用している色鮮やかな食器類や抱瓶(携帯用の酒の小瓶)、厨子甕(骨壺)、土瓶などが挙げられる。

「壺屋焼の陶工にとって最大の難関は登り窯の準備です」と島袋氏は語る。

最初に火口に薪をくべるが、この工程で約1,000度の火力を維持するために約20時間を要する。さらに各窯にも狭い孔を通して上から下まで同様に薪をくべ、さらに約250度温度を上げる。窯に薪をくべる作業そのものが芸術だ。

「炎が窯の中を通り、一つ一つの焼き物が置かれた場所によってどのような影響が出てくるのか、窯の中の炎の通り道を視覚化する必要があります」と島袋氏は語る。島袋氏の息子の普也氏と娘の可奈子氏も彼の工房の陶工である。「この窯焼きの作業は簡単に人に教えられるものではありません。後継者問題は非常に重要ですが、壺屋焼の質を落とさないように壺屋焼作りの技術を正確に後の世代に伝えることも同じように重要です」