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Highlighting JAPAN

700年の遺産

熊本県の人吉球磨には相良氏の文化的遺産が今も生きている。

15世紀半ばから17世紀初頭までの戦国時代、日本では各地の大名同士が領地の防衛や拡大のために争いが続いた。こうした争乱の時代の中で、滅亡した大名も多い。日本が統一され平和になった江戸時代(1603-1867)においても、徳川幕府の命により、地位や領地を失うこともあった。そうした中、九州の相良氏は、江戸時代の終わりまで約700年にわたって人吉球磨(現在の熊本県人吉市・球磨郡)を治め続けた数少ない領主である。

相良氏はもともと現在の静岡県にあった相良庄と呼ばれる地域の領主であったが、12世紀末に鎌倉幕府の命令で、人吉球磨に移った。相良氏は新たな領地で民衆の心をつかむため、その土地で古くから根づく文化を尊重することに努めた。

「通常、新しい領主の多くは、その土地に残る歴史や文化を否定したり破壊したりしますが、相良氏は違いました」と人吉市教育委員会文化財専門員の和田好史氏は言う。「領主と民衆が一緒になって文化を守ってきたので、人吉球磨には古い神社仏閣が今も数多く残っています」

現在、神社仏閣の重要文化財建築物は熊本県内に19件あるが、うち16件は人吉球磨にある。中でも代表的なのが806年に創建された青井阿蘇神社である。青井阿蘇神社は今も土地の守り神として信仰を集めており、毎年10月には、創建以来1200年以上続く歴史を誇る「おくんち祭り」が開催される。

人吉球磨には、青井阿蘇神社以外にも急勾配で大きな茅葺き屋根をもつ歴史的建造物が多い。その一つが、1295年創建の青蓮寺阿弥陀堂である。堂内に安置されている阿弥陀如来像も国の重要文化財に指定されている。

「相良氏の700年の統治は建造物や仏像だけではなく、人々の暮らしに根ざした風習や食にも影響を与えています」と和田氏は言う。

相良氏の影響を受けた風習の一つが球磨焼酎である。これは、16世紀から飲まれていた米を原料にした蒸留酒であり、江戸時代には貴重だった米を使った醸造を相良氏が認めたことから、人吉球磨で広く飲まれるようになった。球磨焼酎を楽しむ宴席からは、日本のじゃんけんのルーツと言われる「球磨拳」という拳を使った遊びも生まれた。

球磨拳と同様に、「ウンスンカルタ」も日本では人吉球磨のみに今でも残る遊びである。ウンスンカルタは16世紀末にポルトガルから日本に伝わったカードゲームが起源と言われ、江戸時代に全国に広がった。江戸時代中期に徳川幕府が賭博性を理由に禁止したが、相良氏は庶民の楽しみとして大目に見たために、今まで残ったと言われる。

人吉球磨を流れる球磨川は古くから氾濫を繰り返してきた。相良氏は治水事業とともに、農業用水建設を行い、人吉球磨を米の産地へと変えた。また、球磨川は米や材木などの物資の輸送にも活用された。この伝統は現在、観光事業としての「川下り」に受け継がれている。

「まさしく球磨川は人吉球磨の『母なる川』です」と和田氏は言う。「人吉球磨の文化は、相良氏、民衆、そして自然によって形作られたのです」