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Highlighting JAPAN

東京と江戸をつなぐ伝統

富田染工芸は、最も洗練された伝統工芸を今も生み出し続けている。

東京でも最も流行に敏感かつ国際的な中心地に近い神田上水沿いに、過ぎ去った時代の面影を残す工房がある。富田染工芸は100年以上前に創立され、日本の最も伝統的・文化的に重要な工芸を生み出してきた。

「糊防染」の技を使った東京染小紋には、遠くからはほとんど識別できないほど複雑なデザインが施されている。

新宿区高田馬場にある、迷路のように入り組んだ木造の工房の中で、職人たちは様々な色を混ぜた糊を作ったり、非常に長い生地を蒸して洗ったりといった作業を行っている。

工房の広いコンクリート床の部屋いっぱいには、白い布がピンで張りつけられている。この上に、職人の浅野匠進氏は型紙を置き、トランプカードほどの大きさのへらを使って濃厚な色糊を塗る「型付け」を巧みに行う。ここで作られる生地のほとんどが、着物作りに使われる。

「力が弱過ぎたり、あるいは、強過ぎたりすると、染め具合が均一になりません」。そう説明しながら浅野氏は工房を驚くべきテンポで動き、布1枚につき何度も染色工程を繰り返す。「力の入れ加減は、経験でわかります」

73歳の浅野氏は、職人として非常に長い経験を積んできた。富田染工芸で働き始めてからは53年目となる。浅野氏がこの世界に足を踏み入れたのは10歳の時で、その頃、彼は世田谷区にある両親の工房近くの多摩川で、ネクタイ用の染色布を洗っていた。なお、1960年代には、川でのこうした作業は、川の汚染を防ぐために禁じられている。

「私が働き始めたころは、この高田馬場近辺に300ぐらいの東京染小紋の工房がありました。いま残っているのは私たちだけです」と浅野氏は言う。

製作工程の多くは昔から変わらず続いている。粉状の餅米と米ぬかなどを混ぜ合わせて糊を作り、それを蒸して練り、染料を加える。また、型紙は柿渋を使って2〜3枚の和紙を貼り合わせて作られる。

型紙の複雑なデザインは錐彫、突き彫りといった昔ながらの技術を駆使し、専門職人によって作られる。この作業には、千枚通しやノミに似た手作りの器具が用いられる。

標準的な36 cmの正方形の型紙を職人が作るには約1ヵ月を要し、費用は30万円から90万円になると、富田染工芸の富田篤代表取締役は言う。「価格はデザインの複雑さと関係しています」と言う。富田染工芸は約12万枚の型紙を置いており、中には創業当時からのものもある。

「型付け」が終わると、生地を乾燥させ、大きめのへらを使って地色を染める。さらに生地を蒸して染料を定着させ、余分な糊を洗い落とす。

富田氏によれば、この微細模様の染物の需要がピークを迎えたのは17世紀であった。当時、徳川幕府は諸大名を江戸に1年おきに呼びよせていた。大名が集まる場で目立つような染物のデザインを諸大名が競い合っていた。その結果、江戸(現在の東京)は大名の礼装である裃の生産拠点として栄えた。

これらの模様は全てがユニークで、諸藩の地域の特徴を反映しているが、それぞれの模様の特徴は、2〜3メートルまで近づかないと分からないほど繊細なものであった。

江戸時代(1603〜1867年)、この染色技術を使った生地が広く普及し、商人たちが自らを武士と区別できる、より控えめな着物にも使われた。

富田氏の工房は、東京染小紋(1974年に国指定伝統工芸に認定)の技術をバッグや様々なアクセサリーの製作にも取り入れている。例えば、極細のシルクから作られ、「江戸更紗」風の様式で染色されるネクタイやショールなどである。

しかし、富田染工芸はあくまで着物用の生地を主軸としている。

「昨今は着物を着る人が少なく需要も減っていますが、それでも週に約30反の生地を製作しています」と浅野氏は言う。

「ファッションには周期があり、私たちのように、この伝統工芸の存続を望む着物愛好家の方々がまだまだいらっしゃいます」