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Highlighting JAPAN

自然と文化が調和するまち

鎌倉の人々は長年にわたって、自然の風景と歴史的・文化的遺産を守ってきている。

日本では12世紀末、武将の源頼朝(1147-1199)が政権を握ったことで、武士による政権が誕生し、江戸時代(1603-1867)まで続く武家政権となる。

頼朝は、三方を山に囲まれ、美しい海岸をもつ鎌倉に幕府を開き、武家政治の中心とした。

頼朝は、平地に鶴岡八幡宮と、その参道である若宮大路を造営、そこを中心として、まちづくりを進めた。その後、まちを囲む山々には、人や物資の行き来のために、「切通」と呼ばれる道が、山を切り開いて建設された。

鎌倉幕府は13世紀に数多くの禅宗寺院や他の仏教寺院も建立した。高徳院の有名な鎌倉大仏も、この時期に造立されたと伝えられている。

「鎌倉は平地が少ないため、山間にある谷戸にも寺院が建立されました」と鎌倉市歴史まちづくり推進担当の髙橋悠子さんは言う。「緑豊かな山々を背後にして神社や寺院が建っているのは、鎌倉の素晴らしい景観の一つです」

1333年に鎌倉幕府は滅亡したが、その後の武家政権も、武家政権の発祥の地である鎌倉の神社や寺院を保護した。江戸時代には、鎌倉を舞台にした歌舞伎の演目が作られたり、鎌倉の海岸から富士山を望む風景が頻繁に浮世絵のテーマとなった。こうして、江戸の庶民は鎌倉を知るようになり、多くの人々が神社や寺院を訪れるようになった。

「江戸時代に鎌倉は信仰や遊山の対象となり、いわば観光地になっていったのです」と髙橋さんは言う。

「若宮大路には、多くの宿、商店、茶屋などが軒を連ね、人々で賑わいました」

明治時代(1868-1912)になると、温暖な気候と遠浅の美しい海岸をもつ鎌倉は、リゾート地として人気を集め、政治家、企業家、華族などが別荘を建てるようになった。その頃、こうした人々向けの調度品や土産物として人気となったのが、伝統的工芸品の鎌倉彫である。鎌倉彫は主に草花の模様が彫られた漆器で、寺院の仏像、仏具、装飾品などを作成してきた仏師たちの新たな創作活動の場となった。

ノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成(1899-1972)、『東京物語』で知られる映画監督の小津安二郎(1903-1963)などの芸術家も豊かな自然環境と古都の趣に魅了され、鎌倉に移り住んだ。鎌倉を舞台にした映画も数々作られている。例えば、同名のマンガを原作にし、2015年にカンヌ映画祭に出品された「海街diary」は、鎌倉を舞台とした4姉妹の物語である。

1960年代の高度成長期に、鎌倉では住宅地としての大規模な開発が進められた。しかし、1964年には、鶴岡八幡宮の裏山である「御谷」と呼ばれる緑地に宅地造成の計画が持ち上がった時、住民が、緑地の永続的な保全へとつながる反対運動を起こしている。これをきっかけに、古都の歴史的風土を守るための「古都保存法」が1966年に制定され、自然と歴史的遺産が調和した鎌倉の景観が守られることとなった。

「鎌倉は歴史的遺産と人々の日々の生活が共生するまちづくりを目指しています」と髙橋さんは言う。「今後は、歴史ある文化的な遺産の保全とともに、新たな文化の創造にも力を入れていきます」