Home > Highlighting JAPAN > Highlighting Japan October 2018 > 明治150年

Highlighting JAPAN

 

 

日本近代建築のあけぼの

日本の近代建築は幕末に始まり、明治新政府の近代化政策と共に本格化していく。その黎明期を支えた辰野金吾らの功績を紹介する。

日本の建築教育の先駆けとなったのは、産業の近代化を推進する工部省におかれた工部大学校である。それまでの“お雇い外国人建築家”頼みではなく、ヨーロッパ建築の技術や様式を学び、日本人自らの手で世界に誇れる本格的近代建築を造りたい。そんな大きな望みから、日本人建築家の養成が始まった。

工部大学校の造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で教べんを執ったイギリス人建築家のジョサイア・コンドルは、日本政府の招へいで1877年(明治10年)に来日し、任期満了後も帰国せず、日本に永住して鹿鳴館やニコライ堂、岩崎久彌茅町邸など数多くの建物を建築し“日本建築界の父”と呼ばれた。建築史家の河東義之さんは「本格的な西洋建築の導入や日本人建築家の育成はもちろん、軟弱地盤に対する基礎構法や、地震大国日本における耐震構法を徹底したこともコンドルの大きな功績」と語る。

そのコンドルの教え子である第一回卒業生に、日本銀行本店を手掛けた辰野金吾がいた。彼は首席で卒業した後イギリスに留学し、帰国後コンドルに代わり工部大学校の教授を務め、さらに数多くの本格的西洋建築を手掛けることになる。日本銀行本店は、日本人が国家的な建築物を造り上げる力量を備えた証ともなった。「イギリスのネオ・バロック様式にルネッサンス的意匠を加味した質実剛健な外観は、国家の象徴たる建物にふさわしいものでした」河東さんは言う。工事開始後、1891年の濃尾大地震の被害状況に鑑み、2,3階の外壁を軽量化する変更を行っている。

また、東京停車場(現・東京駅丸の内駅舎)は、ドームを載せた外観が印象的なイギリス・クイーンアン様式。赤煉瓦に白い花こう岩のストライプは“辰野式”とも呼ばれ、彼が設計した他の建造物にも見られる。コンドルの教えに倣い耐震性を重視した建物で、基礎杭を1万本以上も使用し、1923年に発生した関東大震災にも耐えた。第二次世界大戦時の東京大空襲によりドームや屋根、内装を焼失し、戦後に3階建駅舎を2階建として再建したが、復元工事により2012年に創建当時の威容が再現されたのは記憶に新しい。なお、復元工事の際、長らく基礎を支えた松杭が腐食もせずに機能を果たしていたことが確認され、驚きと共に話題となった。

辰野は一方で、関西地方の古都に建つ奈良ホテルのような木造・瓦葺の和風建築も手がけている。社寺建築を思わせる外観だが、上げ下げ窓に真壁造り、シャンデリアに格天井など和洋折衷の意匠がそこかしこに見られる。“関西の迎賓館”と呼ばれ、当時、国賓・皇族の宿泊にふさわしい建築物として評価された。

辰野と同期の片山東熊が設計した東宮御所は、当時の日本の建築、美術、工芸界の総力を結集した、明治期の本格的近代洋風建築の到達点だった。現在は、迎賓館赤坂離宮として各国の要人を迎え入れている。迎賓館は一般公開されており、けんらん豪華な建物や美術工芸品をこの目で見るという貴重な体験ができる。

コンドルからヨーロッパ建築を学んだ弟子たちは、その後、自ら欧米に赴いて様式や意匠、構造に至るまで体系的な建築学を改めて会得し、日本の建築界の礎となっていった。国家的建築を日本人建築家の手で造るという壮大な目的は、彼らの間断なき努力によって果たされた。