Home > Highlighting JAPAN > Highlighting Japan November 2018 > 木と日本の暮らし

Highlighting JAPAN

 

 

木と人を育てる、宮大工の世界

数々の寺社建築の棟梁を務め、「現代の名工」にも選ばれた小川三夫さん。代々法隆寺棟梁の家系にあった西岡常一さんの唯一の内弟子でもある。日本古来の寺社建築の技術力の高さや宮大工のものづくりへの姿勢などを伺った。

寺社建築が一般の民家の建築と決定的に異なるのは、時に何十メートルにも及ぶ大きな木を使う点である。「小さな木ならば抑え込むことができるが、大きな木は癖がそのまま出る。宮大工は、その木の癖をくんで造るんです。でも木の癖は一方向にしか出ないから、人間の癖の方がよほど複雑ですよ」。宮大工として50年以上ものキャリアを持ち、独自の徒弟制度による寺社建築会社の鵤工舎(いかるがこうしゃ)で後進を育て続けてきた小川三夫さんは、木とも人とも長年向き合ってきた。

栃木生まれの小川さんが宮大工になりたいと思ったのは、高校2年生の時に修学旅行で訪れた奈良・法隆寺の五重塔を見上げた時だった。1300年も前のものだと教えられ、そんな昔にどうやってこのような大きな木を運び上げたのかと感心し、自分も造ってみたいとの思いに駆られた。銀行員の父親にその思いを話すと「川を遡るようなものだ。苦しいだけで周りの景色を見る余裕もない人生だぞ」と反対され、勘当同様に家を飛び出した。法隆寺の建立責任者である棟梁の家系にあった西岡常一さんを探し当て、一度は断られたものの、長野で仏壇作りの修行を経て、やっとの思いで弟子入りを果たした。

弟子として西岡家に住み込み、昼は棟梁と木作りをし、夜は道具の刃物を研ぐ。図面描きなどの修行を積んだのち、法輪寺三重塔や薬師寺西塔、金堂の再建に副棟梁として携わった。「西岡棟梁とは27年間一緒にいたけれど、直接的には何も教えてはくれない。後にも先にも一度だけ、弟子になって3ヶ月ほど経った頃に『こういうものが削れるようにしろ』と言って、自分で削った、向こうが透けて見えるほど薄い見事なカンナくずを一枚ヒラリとくれた。それを窓ガラスに貼って木を削り続け、寝ても覚めても木と寺のことを考えていた」

技とは言葉ではなく体で覚えるものだというのが小川さんの持論である。大工仲間と暮らし、日常を共有することによって、考え方も体つきも大工らしくなっていく。小川さんは自分で弟子を取る棟梁の立場となり鵤工舎を設立してからも、自宅で後進と寝食を共にし、技を継承してきた。「集団生活を通して相手を理解し、いたわる気持ちが生まれる。一人一人にその気持ちがなければみんなで大きな寺社を造り上げることはできない」と語る小川さんの下から、日本全国の様々な宗派、様式の寺社の設計施工を通じて、100人ほどの大工が育っていった。

木と人の扱いを熟知した者でなければ、棟梁にはなれない。製材する道具もない、木を割って使うしかない1300年前に、古代人はどうやってあの法隆寺を建てたか。「法隆寺はひのきでできている。杉なら900年位、ひのきはまっすぐに割れ、しかも伐採後およそ200年で強度が最高になる。だから法隆寺は1300年もった。その頃には、ひのきの性質を知り、大人数の力を使って運び上げる知恵と統率力を持った棟梁がいたのだと思います」。現代は木の伐採が進み、寺社建築に使える大きな木が不足しているとも言われる。しかし名工と呼ばれる小川さんは「木も人も、継承するためには今から育てていけば良いんです」と、経験に裏打ちされた自信をたたえて静かに語った。