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June 2022

小林一茶:弱い者に寄り添う俳人

  • 「やれ打つな蝿が手をすり足をする」の句と人物(自画像)を一茶が自筆で書いた扇面
  • 国の史跡に指定されている、一茶が最期を迎えた土蔵
  • 1990年、長野県信濃町に建立された一茶の銅像。一茶を慕う地元の人々によって、一茶の一族の墓の近くに1910年に建立された俳諧寺(はいかいじ)の前に立つ。
  • 一茶の門人の村松春甫(むらまつ しゅんぽ。1772-1858年)が描いた小林一茶の肖像画(一茶記念館所蔵)
1990年、長野県信濃町に建立された一茶の銅像。一茶を慕う地元の人々によって、一茶の一族の墓の近くに1910年に建立された俳諧寺(はいかいじ)の前に立つ。

厳しい境遇の中、平易な表現を使い、ユーモアのある俳句を数多く残した小林一茶(こばやし いっさ。1763-1828年)を紹介する。

一茶の門人の村松春甫(むらまつ しゅんぽ。1772-1858年)が描いた小林一茶の肖像画(一茶記念館所蔵)

1763年、現在の長野県信濃町の農家に生まれた小林一茶 (以下、「一茶」)は、1828年に65歳*で亡くなるまで、およそ2万句以上もの俳句を作ったといわれる。

一茶は、3歳で母親を亡くし、8歳で新たに迎えた継母にはなじめなかったという。15歳で江戸(現在の東京)へ奉公に出された後、奉公先を転々としながら、20歳を過ぎた頃から俳句の道を志すようになった。俳句修行の旅や俳人との交流を重ねた。一茶が52歳の時、28歳の妻を迎え、4人の子どもに恵まれたものの、いずれの子も幼くして病で亡くなり、妻も37歳で亡くなってしまう。最晩年の1827年には火災で住んでいた母屋を失い、焼け残った土蔵で、その年、65年の生涯を終えた。こうした体験が、一茶の創作に少なからず影響を及ぼしているものと想像される。

一茶の故郷である信濃町に建つ「一茶記念館」学芸員の渡辺洋さんは、「一茶は、常に弱き者、小さき者の視点に立って創作をした俳人だった」と言う。

「やれ打つな蝿が手をすり足をする」の句と人物(自画像)を一茶が自筆で書いた扇面

「一茶自身の身に降りかかった数々の苦難、俳句における才能が認められながらも裕福な暮らしとは無縁の生涯を送ったことなどが作品の背景にあることは確かです。しかし、それらを悲壮感のある表現ではなく、むしろユーモアの感覚を持って描いている点に一茶らしさがあるといえます。後年、近代俳句を確立した俳人の正岡子規(1867-1902年)は、一茶の句の特徴は主に『滑稽・風刺・慈愛』の3点にあると評しています。また、客観的な風景描写に自分の気持ちを託すような作句手法が主流だった当時の俳句の世界において、自我を直接的に表現する独特の作風が異彩を放っています」

生きる上で誰もが感じるであろう喜びや悲しみ、あるいは苦難。一茶はそれらを誰にでも分かる平易な表現で俳句にした。そのことで、一茶の句には、時代や生活環境の違いを超えた普遍性を備えたものとなった。それが、一茶の句が今も多くの人々に愛されている理由と言えるだろう。

* 年齢は全て、伝統的な「数え年」での年齢。生まれた時を1歳として、1月1日を迎える毎に1歳ずつ加える。

国の史跡に指定されている、一茶が最期を迎えた土蔵


やせ蛙まけるな一茶これにあり

1816年、一茶54歳の作。季語は「蛙」で春の句。一茶の中で最も有名な句である。2匹の雄の蛙が1匹の雌を巡って格闘する様子を見た一茶が、弱い痩せた蛙を応援して詠んでいる。一茶の弱い者の側に寄り添う視点がよく表現された句だが、この蛙は一茶自身の姿のようでもある。また、一茶は、この年、長男を幼くして亡くしている。長男を悼む気持ちが、やせ蛙への応援につながっているようにも読み取れる。



やれ打つな蠅(はえ)が手をすり足をする

1820年、一茶58歳の作。季語は「蠅」で夏の句。「おい、殺すな。蠅が手を摺(す)り、足を摺り合わせて命乞いしているじゃないか」という意味のユーモラスな句である。蠅のような小さな生き物にも命があり、むやみに殺すべきではないと言っているが、命が惜しいと祈るかのような蠅の姿は老境に差し掛かった一茶自身の心情を託しているとも読み取れる。



名月をとつてくれろと泣く子かな

1813年、一茶51歳の作。季語は「名月」で秋の句。「空に輝くあのきれいな月を取ってほしい」とせがんで泣く子どもの姿を詠んでいるが、この時、一茶にはまだ子どもはいなかったため、熱を出して起きることができない一茶自身の姿を泣く子どもに託したものとされている。子どもと子どもを持つ親なら、世界共通で理解できる光景だろう。