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September 2022

鎌倉の流鏑馬(やぶさめ)と武士の礼法

  • 鎌倉の鶴岡八幡宮で行われる流鏑馬神事で矢を射る射手
  • 鶴岡八幡宮
  • 3つの的のうちの一つに矢を放つ射手
  • 明治神宮で弓を射る三十一世宗家小笠原清忠(右)と嫡男・清基さん(左)
3つの的のうちの一つに矢を放つ射手

神奈川県鎌倉市は、12世紀末に源頼朝*(みなもとのよりとも。1147〜1199年)が初めての武家政権を開いた土地である。市内の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)では、鎌倉幕府による創建以来の歴史をもつ祭りの一部として、毎年秋に流鏑馬(やぶさめ)神事が執り行われる。

鎌倉の鶴岡八幡宮で行われる流鏑馬神事で矢を射る射手

鎌倉武士の狩装束(かりしょうぞく)に身を包んだ射手が全長約254メートルの馬場を駆け抜ける間に、馬上から三つの的に向けて矢を射る。馬の駆ける音、射手の「陰陽(インヨー)」という掛け声、矢が的を射抜く乾いた音、そして見守る人々の「おーっ」という歓声が鶴岡八幡宮の馬場に響き渡る。

鎌倉市に鎮座する鶴岡八幡宮は、鎌倉武士の守り神が祀(まつ)られており、毎年、9月に行われる例大祭の最終日、境内に作られた流鏑馬馬場で、この流鏑馬神事が行われる。流鏑馬とは、射手が馬に装着された鉄製の鐙(あぶみ)に体重をかけて踏み込んで馬を走らせ、下半身だけでバランスを取りながら、両手で弓矢を放って的を射る武術である。もともと、朝廷の遊興として行われていた流鏑馬だったが、武家の台頭により神事へ発展した。流鏑馬神事とは、一般的に走る馬の上で射手が弓矢で的を射抜くことで、その年の武運を祈ったり、神前に捧げられた的や矢を持ち帰り加護として天下泰平や五穀豊穣を祈る神事である。鶴岡八幡宮の例大祭で奉納される流鏑馬神事は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が1187年に放生会(ほうじょうえ)**の後に奉納したことが起源とされる。

鶴岡八幡宮

現在、鶴岡八幡宮での神事を行うのは、有力武士の流れをくむ小笠原流の門人たちだ。

「弓馬術礼法小笠原流は、礼法***・歩射・騎射が一体となったもので、地上で弓を引く歩射も馬上から弓を引く騎射も、流鏑馬の姿勢の基本となる礼法に従った動作で行います。まず武家の礼法をきちんと身につけなければなりません」

こう話すのは小笠原流三十一世宗家小笠原清忠(おがさわら きよただ)さんだ。

「武士が理想とする立ち居振る舞いは、無駄がなく、合理的で、しかも美しいものです。それを身につけるには、下半身や体幹の強さが欠かせません。入門したての者は、歩く・立つ・座るといった基本動作の稽古(けいこ)だけで疲労困憊し、翌朝は筋肉痛で起き上がれないこともあるのです。実に、礼法に則(のっと)った歩き方ができるようになるに10年はかかると言われています」

小笠原流は、開祖の小笠原長清(おがさわら ながきよ。1162-1242年)が源頼朝の弓馬の師範に招かれたことに始まる。その後、代々の当主は室町幕府(1336-1573年)や江戸幕府(1603-1867年)の将軍に仕え、その技と精神を一子相伝(いっしそうでん)****で伝えてきた。小笠原流で研鑽を積む門下生の集大成とも言えるのが、流鏑馬だ。流鏑馬の射手は、常日頃から礼法はもとより、例えば木馬の上で腰を据えて体幹を鍛えるための騎馬訓練、弓を射る訓練など基礎的な鍛練を積み上げ、本番に臨むという。流鏑馬の射手は、馬に乗って、弓を引き、掛け声を出す、という三つの動作を同時にこなす必要があり、強靭な体躯、瞬発力、集中力が必要だ。

明治神宮で弓を射る三十一世宗家小笠原清忠(右)と嫡男・清基さん(左)

かつての日本の武家の高度な弓と乗馬の技術、そして勇敢さは、800年余り、鎌倉の地で流鏑馬神事を通して、現代にも伝わっていると言えよう。

* 日本の武将。政治の実権を握り、日本ではじめて武士による政権である鎌倉幕府を作った。
** 鳥獣を野に放ち、殺生を戒める宗教儀式。
*** 礼法とは礼にかなった所作・立ち居振る舞いの様式。小笠原流の礼法は、公家の文化を取り入れた上級武士の間で育まれた武家の礼法として、実用的かつ、能動的・合理的・民族的に納得でき「美」として映るとされている。
**** 学問や技芸などの奥義或いは秘法を自分の子の中の一人だけに伝え、他の者には秘密にすること