Skip to Content

October 2022

日本における金の生産と活用

  • 名古屋城の金の鯱(しゃち)(高さ約2.6メートル)
  • 埼玉県行田市の小見真観寺(おみしんかんじ)古墳から出土した金銅製の耳飾 (東京国立博物館所蔵)(6〜7世紀)
  • 村上隆・高岡市美術館館長
  • 後藤乗真(ごとう じょうしん)作「藻に鯰図三所物*(もになまずずみところもの)」。(東京国立博物館所蔵)(16世紀)。上段:笄(こうがい)(長さ22.9センチメートル)、下段左:小柄(こづか)(長さ9.7センチメートル)、下段右(2点):目貫(めぬき)(長さ4.4センチメートル)
  • 蘆亀蒔絵印籠(あしかめまきえいんろう) (東京国立博物館所蔵)(19世紀) (縦7.6センチメートル、横5.2センチメートル)
村上隆・高岡市美術館館長

歴史材料科学が専門で、高岡市美術館館長、京都美術工芸大学特任教授を務める村上隆 (むらかみ りゅう)さんに、日本の金の生産や利用の歴史などについて話を伺った。

埼玉県行田市の小見真観寺(おみしんかんじ)古墳から出土した金銅製の耳飾 (東京国立博物館所蔵)(6〜7世紀)

金は、古くから日本人のみならず、世界中の人々を魅了してきました。その特性や魅力を教えてください。

金は、酸化しないので錆(さ)びないという特性があります。地中に存在している間も、人によって地上に掘り出された後も、また、水中にあっても、その輝きが変わることは基本的にありません。人類は、金の持つこの不変性に対して畏敬と憧れを抱き、「永遠」や「不老不死」の象徴として金に魅了されてきたのだと思います。

また、金は材料としても優れています。例えば、加工性です。鎚(つち)で叩けば、よく広がります。溶かして鋳造することもできます。そして、耐久性もあります。他の金属を加えることで硬(かた)くすることも、すり減りにくくすることもできます。

さらに、金は希少でもあります。人類がこれまでに掘り出した金の量はオリンピックプールで換算して4杯分程度だそうです。

人類は、昔から金を大量に掘り出し、所有し、様々な物に加工したいという願望を常に持ち続けてきました。そのために、採鉱や加工の技術を発達させてきました。金、さらに、銀、銅という金属に対する強い欲求が、世界の歴史に大きな影響を与えてきたと言えるでしょう。後で説明しますが、日本はこの金、銀、銅の世界有数の産出国であった時代があり、これらの金属は日本の経済や文化の発展にも深く関わってきました。

日本において金が使われるようになったのは、いつ頃からでしょうか。

遅くとも5〜6世紀には中国大陸や朝鮮半島から金製品そのものや金の加工法が伝わったと推定されています。当時の権力者の墓である「古墳」からは、金の耳飾りなどの装飾品が出土しています。金は埋葬された人の権力の象徴であったと考えられます。この時代の金製品が古墳以外の場所で見つかることは稀です。金は特別な存在で、おそらく一般の人の目に触れることはなかったでしょう。

しかし、6世紀前半に仏教が伝来すると、寺院や仏具が金で装飾されるようになり、徐々に金が人目に触れる存在となっていきます。749年、東北地方の陸奥国(むつのくに)小田郡(現在の宮城県遠田郡涌田町)で日本においては初めて金が産出されます。この金は、当時建設中であり752年に完成する、現在の奈良市にある東大寺の大仏の鍍金(金メッキ)の材料としても使われました。また、760年には、実際に貨幣として流通したかは不明ですが、日本最初の金貨と言われる「開基勝宝(かいきしょうほう)」が鋳造されています。陸奥国での金の産出以降、日本各地で金が発見されるようになり、日本は世界でも有数の金産出国になっていきます。

当時、金はどのように採掘されていたのでしょうか。

陸奥国の金を含め、ほとんどは砂金の状態で産出しました。風化によって地表近くの金鉱脈が削られ、川へと流れ出た金の粒が、砂金として川底にたまるのです。地中から金鉱石を掘り出して金を取ることに比べると、容易に金を手に入れることができたのです。

平安時代(8世紀末〜12世紀末)が終わると、貴族に代わり武家が権力を握ります。すると、大量の金を手に入れ、その財力を基に権力を握る武将が現れます。例えば、12世紀に東北地方の平泉(現在の岩手県平泉町)を中心に栄えた奥州藤原氏です。奥州藤原氏を支えたのが、東北地方で産出する砂金でした。現在も平泉町には当時創建された中尊寺金色堂(参照)が残っています。金がふんだんに使われた金色堂を見ると、奥州藤原氏がいかに繁栄していたかが分かります。13世紀に活躍したイタリアの冒険家、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「黄金の国」として記された「ジパング」は、平泉のことではないかという説があります。それを裏付ける確固たる証拠はありませんが、そう信じられるのも理解できます。

陸奥国で砂金が発見されてから、金鉱石から金を取り出すようになる16世紀半ばまでの約800年間に産出した金は100トン前後と推定されています。これほどの量の砂金が長期間にわたって産出した国は、世界的に極めて珍しいです。

16世紀半ばに金鉱石からも金が得られるようになって以降、日本の金の生産や利用はどのように変化したでしょうか。

16世紀半ばから17世紀初頭にかけて、各地の大名の間で戦が頻発していました。そうした中、有力大名は自らの領土の維持、拡大の資金とするために、領内での金、銀、銅の鉱山開発を進めました。例えば、甲斐(現在の山梨県)の大名、武田信玄(1521〜1573年)は金山の開発を行いました。そして、その金で「甲州金」と呼ばれる貨幣を鋳造、発行しています。

また、自らの権威を誇示すために、金を潤沢に使った建築物を建てたり、美術品を制作させた武将もいました。有名な武将、織田信長(1534〜1582年)は金箔を貼った瓦を使った安土城を築き、信長の死後に権力を握った豊臣秀吉(1537〜1598年)は、室内全体に金箔が貼られた茶室を作っています。

武田信玄による甲州金を使った貨幣制度の仕組みは、その後、1603年に徳川家康(1543〜1616年)が開いた徳川幕府に受け継がれました。徳川幕府は金貨、銀貨、銅貨による三貨制度を設け、これら3種類の貨幣が全国を流通するようになります。

1603年から徳川幕府が約260年にわたって日本を治めた江戸時代には、どのように鉱山開発が行われたのか教えてください。

江戸時代、徳川幕府は積極的に鉱山開発を進めます。現在の新潟県にある佐渡金山(参照)や、現在の静岡県にある土肥(とい)金山などを直轄し、金の採掘を行いました。江戸時代の前半、日本の産金量は世界有数でした。金山の他にも、銀山や銅山を開発しました。例えば、現在の島根県にあり、世界遺産に登録されている石見銀山です。1527年に発見され、その後、幕府が直轄した石見銀山は、16世紀末から17世紀初頭の最盛期には、世界の産銀量の三分の一を産出していたと言われます。また、1690年に開発が始まった、現在の愛媛県にある別子(べっし)銅山も、一時は世界有数の産銅量を誇っていました。

このように、豊富な金、銀、銅が江戸時代の貨幣経済を支えました。また、徳川幕府は諸外国との交流を制限しましたが、中国とオランダに限って貿易を行っていました。この貿易で、金、銀、銅は主要な輸出品でもあったのです。

しかし、江戸時代の後半には、採掘技術の限界、採算性の悪化、資源の枯渇などの原因で金、銀、銅の産出量は減少していきます。佐渡金山、石見銀山、別子銅山など、江戸時代に操業していた、いくつかの鉱山は、明治時代(1868〜1912年)以降も操業を続けますが、20世紀後半までにそのほとんどが閉山となります。

江戸時代、貨幣以外に金はどのように利用されたのでしょうか。

例えば、工芸品です。江戸時代、金、銀、銅、鉄などの金属を使った日本の金工芸品は世界最高水準に達したと思います。金工で特に名を成していたのが後藤祐乗(ごとう ゆうじょう、1440~1512年)を始祖とする後藤家です。後藤家は大判や小判といった金貨製造を行っていましたが、将軍や大名など有力武家向けに「三所物(みところもの)」*という刀の飾り金具も作っていました。後藤家の三所物の特徴の一つが、祐乗が発明した「赤銅」(しゃくどう)を使っていることです。赤銅は日本特有の合金といわれ、銅に3パーセントほどの金を混ぜた合金で、特別な着色法によって、表面がツヤのある黒色を呈します。少し紫を帯びた光沢のある黒の赤銅は、金や銀の装飾を美しく引き立てます。

後藤乗真(ごとう じょうしん)作「藻に鯰図三所物*(もになまずずみところもの)」。(東京国立博物館所蔵)(16世紀)。上段:笄(こうがい)(長さ22.9センチメートル)、下段左:小柄(こづか)(長さ9.7センチメートル)、下段右(2点):目貫(めぬき)(長さ4.4センチメートル)

また、蒔絵(まきえ)**を使った工芸品も数多く作られました。平安時代以降、日本で独自に発達した蒔絵は、漆で描いた文様の上に金や銀の粉を蒔いて装飾する技術です。江戸時代には、装身具である印籠(いんろう)や筆記用具を収める硯箱など様々な工芸品に蒔絵が使われました。蒔絵の工芸品は海外でも人気でした。16世紀末以降には、蒔絵の家具や食器などがヨーロッパに輸出されています。

蘆亀蒔絵印籠(あしかめまきえいんろう) (東京国立博物館所蔵)(19世紀) (縦7.6センチメートル、横5.2センチメートル)

こうした工芸品の数々は、江戸末期から明治時代にかけて、欧米で開催された万国博覧会で展示され、大きな反響を呼びます。その一つが、1873年のウィーン万博で展示された名古屋城の金の鯱(しゃち)***です。金の鯱は、城の守り神として、また、徳川家の権力の象徴として、1612年に創建された名古屋城の天守閣の上に2体、飾られていました。高さは約2.5メートルで、表面に金の板が貼られていました。残念ながら、この金の鯱は名古屋城とともに1945年の戦災で焼け落ちてしまいました。現在、名古屋城の天守閣に飾られているのは、1959年に復元されたものです。

名古屋城の金の鯱(しゃち)(高さ約2.6メートル)

今後、金など限りある鉱物資源を有効活用するために、日本は世界の中でどのような役割を果たせるでしょうか。

金、銀、銅といった金属は、私たちの日常生活とは直接関わりないと思うかもしれません。しかし、実際には、パソコン、携帯電話、デジタルカメラといった、身近にあるあらゆる電気通信機器や家電製品にこうした金属が使われているのです。しかも、世界中では、そうした製品が大量に生産されると同時に、大量に廃棄もされているのです。つまり、金、銀、銅といった有用な金属も製品とともに捨てられているのです。これほどもったいないことはありません。

家電製品など様々な工業製品にリサイクル可能な有用金属が資源として存在していることを「都市鉱山」と言います。日本は都市鉱山から有用な金属を回収する優れた技術を持っています(参照)。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会の約5000個の金・銀・銅メダルを、すべて、パソコンや携帯などの製品から回収した金、銀、銅で作り上げたのは、その証と言えます。持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向け国際社会が様々な取組を行う中、日本のこうした技術は世界に大きく貢献できると思います。

* 三所物は、髪を整えるための道具である「笄(こうがい)」、柄(つか)に着ける装飾具である「目貫(めぬき)」、小刀の柄である「小柄(こづか)」の三種類で構成される刀の飾り金具。
** Highlighting Japan 2022年5月号「日本における漆の歴史と文化」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202205/202205_01_jp.html
*鯱(しゃち、もしくは、しゃちほこ)は、頭部は龍または虎で、胴体は魚をした想像上の生物。