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October 2022

日本の大型金貨「大判」

  • 天正長大判(約17.5×10センチメートル)
  • 天正大判表(左)と裏(右)
  • 貨幣の品質を保証する刻印
天正長大判(約17.5×10センチメートル)

日本で、江戸幕府や天下統一を果たした豊臣秀吉によって、かつて製造されていた大型金貨「大判」を紹介する。

天正大判表(左)と裏(右)

「大判金」通称「大判」とは、16世紀後半から19世紀まで製造された大型の楕円形の金貨である。縦の長さが14センチメートルから17センチメートル。大判は、一般に流通する通貨ではなく、褒賞、贈答などの儀礼用として、豊臣秀吉(1537-1598)*や江戸幕府が限定的に製造させたものだ。その表面の線模様や極印、墨書きの文字など独自の意匠が金の輝きを際立たせ、その美しさは見るものを魅了する。

大判は時代によって、概ね6種類がある**。日本銀行金融研究所に設置された貨幣博物館には、その実物が展示されている。同館の主任学芸員、関口かをりさんは「縦の長さが約17.5センチメートルにも及ぶ世界最大級の金貨『天正長大判***』をはじめ、6種すべてが常時そろって展示されているのは他にはあまりないのではないでしょうか。いずれも贈答などを中心に用いられた高額な貨幣だったので、当時の庶民には、見ることができなかったです」と言う。

日本で最初に金貨が造られたのは8世紀中頃とされるが、流通貨幣となるのはずっと後年のことだ。16世紀までは、商人の大きな取引の際や、武功を挙げた武士への褒賞などには、もっぱら砂金が用いられてきた。本格的に金貨や銀貨が製造されるようになったのは、16世紀に入り、主に西日本で銀鉱山、東日本で金鉱山が相次いで発見、開発されるようになってからのこと。大名たちは、鉱山の争奪戦を繰り広げるとともに、採掘や精錬の技術も改良や普及が進み、全国各地の大名たちが、こぞって、それぞれの領地で金貨や銀貨を造り始めたという。

中でも、1588年に豊臣秀吉が、代々装剣金具の製作を家業としていた後藤家5代目・後藤徳乗(とくじょう)に造らせた天正大判が、その後の大判の様式を決定づけた。天正大判は、金と銀の合金を叩(たた)いて成形する鍛造で造られており、縦約17センチメートル、横約10センチメートルと、現代の一般のスマートフォンより一回り大きい。重さ約165グラム、金の含有率は70~76パーセントであった。

その後、1603年に幕府を開いた徳川家康(1543-1616年)は、当時主な金山であった佐渡金山(現在の新潟県)、伊豆金山(現在の静岡県)を幕府の直轄とし、大判の製造を幕府の直営事業とした。その際、天正大判金の形式が踏襲され、製造者も同じ後藤家に引き継がれた。

貨幣の品質を保証する刻印

大判の表には重さを表す「拾両」の文字と、「後藤」という家名、そして後藤家当主のサインである「花押」が、墨で書かれている。また、桐の紋が極印された。「大判は幕府から製造要請があった際に特設される『大判座』で、後藤家が製造しました。その重さや金の含有量は時代により変動しますが、製造はずっと後藤家に託され、後藤家が製造したことが品質の保証となっていました」と関口さんは語る。

江戸幕府は、一般に流通する貨幣として、金貨、銀貨、銅貨の三貨制度を整備した。大判は主に贈答用などに使われ、日常の買い物などで使われる貨幣ではなかったが、大判を小型化し、墨書きが無く大量生産が可能な小判が造られた。1枚が「一両」とされた。(参照)。しかし、1868年に明治政府が発足、日本が近代化の道を歩み始めると、大判とともに、その役目を終えた。

左から、慶長大判、元禄大判、享保大判、万延大判、天保大判

* 天下統一を果たした大名。生年は1536年説もある。
** 「天正大判(1588)」「慶長大判(1601)」「元禄大判(1695)」「享保大判(1725)」「天保大判(1838)」「万延大判(1860)」
*** 「天正大判」の一種、縦に長く大きな物を「天正長大判」と呼ぶ。