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April 2023

広島城:街のシンボル

  • 満開の桜越しに見る広島城の「天守」
  • ライトアップされた広島城
  • お堀越しに見る広島城
  • 二の丸内の復元建物群
  • 散歩コースとして人気の多くの樹木がある広大な城の敷地
満開の桜越しに見る広島城の「天守」

広島城は、16世紀末に、築城された。第二次世界大戦前まで残っていた天守は原爆で一度は崩壊したものの、今では往時の姿が復元され、広島市のシンボルとして市民から愛されている。

ライトアップされた広島城

広島市の中心部に面積約42万平方メートルの総合公園「広島中央公園」が広がっている。この公園の一角に、史跡「広島城跡」がある。当時広く中国地方(本州西部)を支配していた武将、毛利輝元(もうり てるもと。1553~1625年)により1589年に築城が始まり、すべての工事が終わったのは1599年頃。完成した城域は約90万平方メートルに及び、国内有数の規模を誇った。また、城を象徴する天守は五層で、天守台を含む高さは約40メートル*と堂々たる建物であった。しかし、創建から350年余りが経った1945年に広島城は第二次世界大戦時の原爆投下により崩壊し、石垣や堀を残すのみとなった。

「原爆が投下された時、爆心地から1キロメートル範囲内にあった広島城は、大半が灰燼(かいじん)に帰してしまいました。木造の天守も炎上こそしませんでしたが、爆風等により一瞬のうちに崩れ去ってしまったようです」と公益財団法人広島市文化財団で主任学芸員を務める山脇一幸(やまわき いっこう)さんは語る。

お堀越しに見る広島城

その後、1958年には天守の外観が復元され、博物館「広島城郷土館」として復活した。天守復元は広島の「復興のシンボル」そのものであった。そして、城の二の丸内の門や櫓(やぐら)などが復元され、往時の姿を取り戻したのは1994年のことだった。

武将が覇権を競った戦国時代の16世紀頃、城は自然の地形を生かした要塞としての「山城」が主流であった。それとは対照的に、広島城は平地に建てられたのが特徴だ。

「広島は太田川などが瀬戸内海へと流れ込むデルタ地帯(三角州)にあり、当時も陸海の交通の要衝でした。そこに目を付けたのが毛利輝元だったのです」と、山脇さんは言う。

二の丸内の復元建物群

広島城建設当時、政治の中心にあった大坂は、豊臣秀吉(1537~1598年)が築いた大坂城を中心に、城と城下町が一体となって政治や経済の中心地として機能していた。これに倣って広島城を創建したのが、毛利輝元だった。その後、広島城を中心に、広島はこの地方を代表する大都市として発展していった。

19世紀後半の半ばになり、日本の近代化が始まると、大名たちの居城で、軍事拠点でもあった城は、その役割を終えて、多くが取り壊された。しかし、広島城は天守や一部の城郭、内堀などが残された。創建時から変わらぬ天守は、町のシンボルとして市民に親しまれたばかりでなく、その歴史的な価値が認められて1931年には国宝に指定されていた。

1989年に展示リニューアルされた天守の内部は城下町・広島の歴史をテーマにした博物館になっており、最上階の展望台からは広島市街を一望にできることから、国内外から広島を訪れる観光客の高い人気を集めている。

散歩コースとして人気の多くの樹木がある広大な城の敷地

広大な敷地内では、様々な樹木や花々があり、四季折々の景色を楽しめるのも魅力だ。樹木は、約70種類、約1000本以上あり、G7広島サミットが開催される5月には、新緑が美しく、ウワズミサクラやタブノキの花を見ることもできるという。また、日没後、天守はライトアップに映えて美しい。そんな広島城は広島市民の憩いの場であり、同時にシンボルであり続けている。

* 天守の建築のみだと約27メートル