VOL.200 FEBRUARY 2025
HISTORIC JAPANESE PUBLIC ARCHITECTURE OF THE MODERN ERA 日本の公共建築の過去と未来―近代以降の歴史―

丹下たんげ 健三けんぞうが設計した広島平和記念資料館(広島県広島市)
Photo: 一般社団法人広島県観光連盟

日本は19世紀後半から近代化が始まり、公共建築においても、日進月歩の進化を遂げて今日に至っている。建築における近代化の歩みや発展、また、公共建築そのものが持つ魅力について、大阪公立大学教授の倉方くらかた 俊輔しゅんすけさんに教えていただいた。


倉方くらかた 俊輔しゅんすけさん
建築史家、大阪公立大学教授。2017年日本建築学会賞(業績)、2018年日本建築学会教育賞(教育貢献)、2023年日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。著書に「東京レトロ建築さんぽ」「東京モダン建築さんぽ」「神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ」(エクスナレッジ)、「京都 近現代建築ものがたり」(平凡社)など多数。

日本における建築の近代化の始まりと、特に公共建築の発展について概要を教えていただけますでしょうか。

日本の建築における近代化の過程は、大きな流れが二つあったと考えられます。

一つは19世紀後半に入って海外の文明に触れ、日本は欧米諸国と対等な関係な保つために建築において西洋の建築様式を取り入れた流れです。

これは1854年の開国後に、条約港1であった横浜や長崎などで、外国人居留きょりゅう2において西洋風の建築が建てられました。ただし、これらの建築は日本の大工の棟梁とうりょう3が居住する外国人の指示のもとで設計と施工に当たり、現地の気候や材料に適応させた形で作り上げたものです。その後、これら外国人居留地の建築を参考に漆喰しっくい4左官さかん5などの日本の伝統的な技術によって、西洋建築の様式をまねて表現した新しいスタイルとして発展しました。例えば、レンガ造りや石積みなども本物のレンガや石ではなく、壁の表面に漆喰を塗って造作し、レンガあるいは石が積み重ねられているように見せるといった工法をとっています。今日では、「洋風ようふう建築」と呼ばれています。明治時代(1868年から1912年)になると、身分制度が著しく緩和されたことで、それまでは身分に応じて屋敷の門構えや建て方などに制約があったのですが撤廃され、基本、自由になりました。それに加え、近代化に伴ってさまざまな公共建築が主に西洋スタイルで建てられるようになりましたが、日本は、伝統的な木造建築の技術が高度であったため、その伝統的技法を用いて多様な様式を組み合わせた建築が建てられました。

特に、病院や学校建築などでは、地域住民の出資によって個性的な建物が建設された例があります。長野県松本市に現存する旧開智かいち学校では、地元の大工が神奈川県横浜市の居留地建築を参考に、日本の木造建築の伝統技術を用いて独自のデザインを作り出しています。


松本市に現存する旧開智学校校舎(長野県松本市)

二つ目の近代化の流れですが、明治時代の新しい政府の主導で本格的な西洋式の建築を建てるために、国策として、まず、建築の専門家の育成が始まります。1877年に工部省6の工部大学校7に建築学科が設置され、日本初の本格的な建築教育が始まり、東京駅(「開業から110年を迎えた日本最大級の欧風近代建築「東京駅」」参照)を作った辰野たつの 金吾きんごら近代建築家が育成され、本格的な西洋式の公共建築が日本人の設計によって数多く建てられるようになりました。


辰野 金吾の設計によって建設された日本銀行本店(東京都中央区)

次いで、1920年代以降、世界の近代建築には「モダニズム建築」という大きな流れが起こります。それまでの建築は、基本的に過去の建築様式を参照しながら作られていましたが、このモダニズム建築は、過去の歴史的な建築意匠を前提とせず、鉄やコンクリート、ガラスといった工業生産による新しい材料を用いて、それらの材料に特有の構造や表現をもつ新しい建築を追求するようになったのです。日本もその影響を少しずつ受けていきますが、戦争への道を歩む中でナショナリズム高揚の社会風潮のもと、1920年代から1930年代には鉄筋コンクリート造の洋式建築でありながら瓦など和風の屋根を冠したデザイン「帝冠様式」が公共建築で流行しました。愛知県庁舎や名古屋市庁舎、京都市京セラ美術館などがそうしたもので、最近ではその精緻なデザインが再評価されています。

モダニズムが全盛となった第二次世界大戦後から現在に至るまでの公共建築の代表的な例とその特徴を、いくつかご紹介いただけますでしょうか。

先の大戦で敗戦した日本は、国際社会への復帰を目指していく中で、建築においてはモダニズムの路線を邁進しました。これは、ほかのアジア諸国(中国、韓国など)が伝統的な建築要素を残したのと対照的と言えます。機能性や合理性を重視するモダニズムは、先の大戦後に世界的に普及しました。日本にも大きなモダニズムの波が訪れ、モダニズム建築の旗手、ル・コルビュジエ8の影響を受けた日本の建築家たちが、それぞれ独自の解釈でモダニズム建築を展開しました。実際にル・コルビュジエの弟子となった前川まえかわ 國男くにお坂倉さかくら 準三じゅんぞう吉阪よしざか 隆正たかまさに加えて、ル・コルビュジエの作品から多くのものを吸収した丹下たんげ 健三けんぞう9ら、さまざまな建築家の活躍で、日本人建築家は世界でも認められるようになりました。これは、欧米がそもそも歴史的な様式建築が数多く現存し、それらが地域コミュニティや宗教といった人々の日々の生活と密接なつながりを有しているのに対して、より機能的かつ合理的なモダニズムの特性が、もともと簡素で平明さを尊ぶ日本の文化や日本人の特性にも関連づけられたからだと考えられます。


前川 國男の代表作である熊本県立美術館(熊本県熊本市)
Photo: 熊本県観光連盟

日本の建築家たちは、独自の解釈でモダニズムを発展させ、世界的な影響力を持つようになりました。意外と知られていませんが、日本は建築分野で国際的に高い評価を受けており、建築界のノーベル賞と言われているプリツカー賞の受賞数が国別で最も多い国となっています(2024年末現在)。今、アニメ、マンガなど日本文化が世界を席巻しているとよく言われていますが、実は、日本は建築でも世界に誇れる国であることは、もっと日本人が知ってよいと私は思っています。

さて、そのプリツカー賞を日本人で最初に受賞した建築家が丹下 健三でした。丹下が手がけた代々木体育館(東京都渋谷区)や東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京都文京区)、また香川県庁舎(「世界的建築家・丹下たんげ 健三けんぞうの代表作「香川県庁舎東館」」参照)などの作品は国際的に高く評価されています。中でも丹下 健三の広島平和記念資料館は、丹下 健三のデビュー作として40歳頃に設計されたものですが、非常に評価の高い公共建築です。モダニズム建築の特徴であるピロティ10様式を採用し、原爆被害のシンボルである原爆ドームへの軸線11を意識して計画、配置された革新的なデザインで、まさに丹下 健三の傑作と言えるでしょう。

なお、彼の建築家としてのデビューが40歳と遅かったことには理由があります。1937年から1952年まで先の大戦の影響などにより、資材統制のため約15年間、鉄筋コンクリート建築が制限された時期があったのです。この期間は、建築家たちにとって苦しい時期ではありましたが、ゆっくりと思考を深められる時期であったとも言えます。やがて統制が解除された直後の1950年代後半から60年代は、それまであたためられたさまざまなアイディアが花開いた、日本の近代建築の黄金期と言えます。


ねじれた屋根のデザインが革新的な代々木体育館(東京都渋谷区)

そして、1970年代頃から次の段階に入ります。高度経済成長の終焉や社会問題を背景に、モダニズム建築への批判が起こり、ポストモダニズムの流れが生まれ、さまざまな建築家が日本の建築を発展させました。代表的な建築家として、まき 文彦ふみひこがいますが、彼はモダニズムとポストモダニズムの特徴を併せ持ち、代官山ヒルサイドテラス(東京都渋谷区)などで多様な人々を受け入れる公共的空間を創造しました。また、世界的なポストモダニズムの流れを国内に紹介する役割も果たした磯崎いそざき あらたは、より明確にモダニズムからの脱却を図り、北九州市立美術館(「丘の上の双眼鏡と称される北九州市立美術館」参照)や北九州市立中央図書館(ともに福岡県)などで従来の建築様式にとらわれない独創的な建築を展開しています。

さらに、日本の建築は、モダニズムからポストモダニズム、そしてバブル期を経て、90年代以降は環境や社会性を重視する方向へと変遷してきました。この日本の建築界の流れは、単に伝統へ回帰するのではなく、同時に新しい価値を創造することで、世界の建築界に貢献してきたのです。

今日では磯崎 新、安藤あんどう 忠雄ただお伊東いとう 豊雄とよおなど、機能的合理性だけでなく、人々の日常生活の充実感や、精神的な解放感を重視した建築家たちが世界的な影響力を持つようになりました。また現代では、大阪万博の大屋根(「世界最大級の木造建築:大阪・関西万博ばんぱく会場の「大屋根リング」」参照)を手がける藤本ふじもと 壮介そうすけなど、環境問題や社会問題の解決を意識した建築家が注目を集めています。


槇 文彦の設計による代官山ヒルサイドテラス(東京都渋谷区)

倉方さんが考える公共建築のありかたや、鑑賞する際の楽しみかたがありましたら教えてください。

公共建築と言ってもさまざまな建物がありますので、一言で語るのは非常に難しいですが、例えば美術館でも図書館でも多様な価値観に出会う場所であり、異なる意図や目的を持った人々が集まる空間を提供している場所が公共建築だと思います。特に最近の公共建築は、用途が固定的ではなく、時間や状況によって、例えば図書館の中が子育て支援をする場所になったり、夜になると劇場になったりと、複合的な機能を持ち変化していく傾向があると考えられます。最近だと大阪府茨木いばらき市の文化・子育て複合施設「おにクル」などがその例ですが、より多様な価値観に出会う可能性のある空間になっていると思います。


伊東 豊雄の設計による文化・子育て複合施設「おにクル」(大阪府茨木いばらき市)

一方で、歴史的に公共建築は社会の要請や課題の下に建築され、厳密な法令の規定や予算など、さまざまな制約の中で建設されます。つまり、現存する建築を通して、その時代の社会や価値観を理解することができるのが、興味深いところであると思います。現代の視点から過去の建築を見ることで、時代による価値観の変化も感じることができます。時代を反映し、時代とともに変化する公共建築は、私たちの生きる現代社会の状況や考えかたも建築によって体現されることになりますから、将来的にはそれが今の時代を写す証となって相対化されていくでしょう。このように過去から現在までの価値観の変遷が公共建築には映し出されています。それらを見つめ直すことから、未来への展望も開かれるでしょう。

  • 1. 当時は鎖国政策により海外との国交を絶っていたが、1858年、アメリカとの「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約(通称「安政五カ国条約」)を結び、神戸や横浜を開港した。
  • 2. 開国当時、政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域を指す。
  • 3. 大工は主として木造の建物の建築や修理をする職人の名称であり、その指導的立場を務める大工のことを大工棟梁と呼ぶ。
  • 4. 消石灰や水などの原料を混ぜ合わせて作られる耐火性に優れた建材
  • 5. 自然素材を使用した塗り壁を手作業で塗りあげる仕事
  • 6. 産業の近代化を推進するため設置され、官営事業を統括した中央行政機関。
  • 7. 工部省の下に設置された教育機関。工業分野の人材育成を担った。
  • 8. ル・コルビュジエ(1887年生、1965年没)は、スイスで生まれの建築家。モダニズム建築の礎を築いた。
  • 9. 丹下 健三(1913年生、2005年没)は、現代のモダニズム建築発展に貢献。1987年に日本人で初めてプリツカー賞を受賞。
  • 10. 建物の1階部分を柱だけにして空間を開放した構造のこと。これにより、1階が自由に使える広い空間になる。
  • 11. 建築やデザインで使われる言葉で、中心となる線や基準となる方向のこと。

By MOROHASHI Kumiko
Photo: Adobe Stock: Hiroshima Tourism Association; Kumamoto Prefectural Tourism Federation; PIXTA

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