メディア別の政府広報

内閣府大臣官房政府広報室が企画・制作した各種広報をメディア別に紹介しています。

音声広報CD「明日への声」

vol61(平成30年(2018年)6月発行)

音声広報CD「明日への声」のHTML版をトラックナンバーごとにご覧いただけます。こちらから移動できます。
前のトラックへ 目次へ 次のトラックへ

トラックナンバー6

(タイトル)
小倉百人一首を楽しむ

(イントロダクション)

 このコーナーでは、かるたとして古くから親しまれ、学校の教材としても使われることが多い「小倉百人一首」について、毎回2首ご紹介しています。

 「小倉百人一首」は、鎌倉時代の歌人、藤原定家(ふじわらのていか)によってまとめられた歌集で、飛鳥時代後期から鎌倉時代初期、7世紀から13世紀までの100人の有名な歌人の歌が一首ずつ選ばれています。そこには、美しい日本の四季、人の喜びや悲しみ、恋する気持ちなどが歌われています。

(本文)

 今回は、平安時代末期11世紀頃の作者による歌、2首を紹介します。まずは、二条院讃岐(にじょうのいんのさぬき)の歌です。

わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの
ひとこそしらね かわくまもなし

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし

 この歌は、「潮が引いても海の中にある石のように、誰にも知られていませんが、私の袖は人知れぬ恋の涙で乾く間もありません」という意味です。「袖が濡れる」とは涙を流すことの比喩表現で、和歌でよく用いられます。この時代の宮中で働く高位な女性の着物は長い袖が特徴の十二単(じゅうにひとえ)でしたが、その袖が乾く間もないほど、辛い恋に多くの涙を流していることを表しています。

 また、この歌は「石を題材に恋の歌を詠む」という風変わりなお題で詠まれました。作者の讃岐は、人目につかぬ忍ぶ恋に泣く女性を海中深く沈む石に例えたところ、その表現のおもしろさが話題になり、「沖の石の讃岐」とあだ名がつけられたほどです。

 さらに、讃岐の父である源頼政(みなもとのよりまさ)は源氏でありながら平清盛(たいらのきよもり)の信頼厚く破格の昇進を果たしますが、次第に平家の横暴に不満を持ち、平家打倒を企て失敗して失脚します。「沖の石」とは、父の失脚により肩身の狭い思いをしながら生きた讃岐自身のことのようにも思われてきます。

 それでは、もう一度聞いてみましょう。

わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの
ひとこそしらね かわくまもなし

 続いては、前大僧正慈円(さきのだいそうしょうじえん)の歌です。

おほけなく うきよのたみに おほふかな
わがたつそまに すみぞめのそで

おほけなく うき世の民に おほふかな
わが立つ杣(そま)に 墨染の袖

 この歌は、「身のほど知らずかもしれませんが、比叡山に住み始めた私の墨染の袖で、うき世の民を覆い包んで救って差し上げたい」という意味です。「おほけなく」とは「身のほどをわきまず」という謙遜の表現です。「杣(そま)」とは木を切り出した山のことで、ここでは比叡山を指しています。「墨染めの袖」とは僧侶の黒い衣装のことで、当時はもっとも位が低い僧侶の着物の色とされていました。作者の慈円は後に比叡山延暦寺の住職である天台(てんだい)座主(ざす)まで昇り詰めましたが、この歌を詠んだときはまだ修行の身でした。

 慈円は10歳で父の関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)と死に別れ、仏門に入ります。しかし摂関家に生まれた以上、出家しても政治とは無関係とはいかず、当時の政権争いに振り回されていたようです。

 慈円は、このような無常で苦しい世での生活を強いられる民衆を目のあたりにして、人々を救おうと使命感に燃えて修行に励んだのでしょう。そんな決意と信念を感じさせる格調高い歌です。

 それでは、もう一度聞いてみましょう。

おほけなく うきよのたみに おほふかな
わがたつそまに すみぞめのそで

(エンディング)
いかがでしたか? 百人一首に込められた作者の願いや悩みを知ると、平安時代の人なのに親近感を覚えませんか。ぜひ、この機会に百人一首の世界を楽しんでみてはいかがでしょう。

音声広報CD「明日への声」のHTML版をトラックナンバーごとにご覧いただけます。こちらから移動できます。
前のトラックへ 目次へ 次のトラックへ