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Highlighting JAPAN

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海外で活躍する日本人

写真家 林典子氏

社会で見過ごされてきた問題に光を当てる写真家(仮訳)

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年老いた腕が血圧計から突き出ている。明るい黄色の壁にすがって子供がひとり泣いている。孤独な老女がベッドの横で眠っている。膝の上には雑誌が開いている。荒廃した通りに船の赤い竜骨が落ちている。

百聞は一見にしかず。一枚の写真が千の言葉に値するならば、林典子氏の写真は百科事典の「荒廃、苦痛、孤独」の欄を埋めつくすことができるだろう。

「ただ写真で食べていけているからプロだと単純には思っていません。写真で食べていけない写真家でも素晴らしい写真を撮るカメラマンはたくさんいるので、プロとは何なのか?ということを常に自分に問いかけていたいと思っています」と彼女は言う。

林氏が国際写真家として歩み出したのは2006年、彼女が大学で国際関係論を学んでいた時だった。その年、彼女はガンビアとリベリアについての知識を深めるためにガンビアを訪れた。滞在中に地元新聞の『ザ・ポイント』紙の仕事に応募した。彼女の英語は新聞の編集ができるレベルではなかったため、カメラマンとして雇われることになった。

ガンビアで働くうちに、林氏は社会の表面下にある見過ごされてきた物語を探すようになった。彼女が「大手メディアでは語られない小さな物語」に光を当てることを追求しながら、女性の権利問題、社会問題、自然災害を写真で記録しながら世界を旅し始めるまでに長くはかからなかった。

写真を通して、彼女は硫酸に焼かれた傷跡のある女性、HIVに感染して生まれてきた子供、地震や洪水の余波に苦しむ人々の記録を残してきた。 今まで『デル・シュピーゲル誌』、『ワシントン・ポスト紙』、『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』、『ナショナル・ジオグラフィック (日本版)』、『マリ・クレール(イギリス版)』、『ロサンゼルス・タイムズ』などで写真が採用されてきた。

身の危険を感じたことがあったかとの問いに対して、「私は戦地に行ったことがあるわけではなく、目の前に死が迫っていたという状況に直面したことがないので、私自身が生命の危険を感じたことはありません。ただ、本当に危険な状況というのは、そこに危険が迫っていることに気が付かないでいることだと思います」と彼女は答える。
2012年、林氏は日本写真家協会の第7回名取洋之助写真賞を受賞した。しかし、彼女は「写真は誰にでも撮れるもの」とはばからず、自らの功績についても謙虚さをつらぬく。

その通りなのかもしれないが、その親近感こそが、彼女の作品を際立たせている。林氏は題材の最もプライベートな瞬間をレンズにとらえる。日本の高齢化社会の撮影では、高齢の女性に寝床から風呂の中まで付いて回った。ソビエトロシアの全盛期に重要なウラン採掘拠点であったマイルースーの撮影では、彼女は、病気の子供に乳を飲ませる疲弊したキルギスタンの女性を撮影した。硫酸をかけられて傷を負った女性たちの撮影では、顔面復元手術の最中に、医師の手で金属縫合を受けているパキスタン女性を撮影した。

苛酷な作品とは対照的に、林氏自身は驚くほど陽気な人物だ。「私はいつも人々と良い経験を積んできました。どんな国に行っても、人間の本質は親切さと善意です。私は今もガンビアにいる友だちと連絡を取るようにしています。彼らのことは絶対に忘れません」と彼女は言う。

2013年、林氏はフランスのペルピニャンで開かれた写真ジャーナリズムの祭典「ビザ・プール・リマージュ」で報道写真企画部門の最高賞にあたるビザ・ドール賞を受賞した。キルギスで女性に対して行なわれている誘拐結婚を描写した一連の写真が評価され、彼女は25年の歴史をもつ同祭において、日本人で初の受賞となった。

林氏はデジタルの時代になってフィルム写真家がますます多くの課題に直面していることを認める。「今は写真で食べていけます。でも、将来のことは不安です。この仕事の状況を見ていれば、二流の仕事に居場所がないことはわかります。でも、逆にそのことが、自分自身に挑戦しろ、より良い写真を撮れと私の背中を押すのです」と力強く語ってくれた。

林氏には、最高の写真よりも、より良い写真だって物足りないだろう。



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