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Highlighting JAPAN

群馬の輝く女性

群馬県の絹産業では、古くから女性が重要な役割を果たしている。

群馬県は山がちで、稲作に適した土地が少ない。そのため、奈良時代(710-794)頃から、斜面地を利用した桑の栽培、養蚕、製糸、織物作りが行われていた。江戸時代(1603-1867)後半に、上州(現在の群馬県)は、日本を代表する絹生産地に発展し、特に桐生は、高級絹織物の産地として京都の西陣と並び称された。

明治時代(1868-1912)になり海外との貿易が盛んになると、政府は外貨獲得のために絹産業の発展に力を入れるようになった。その一環として、1872年に政府は群馬県富岡市に西洋の最先端の機械を導入した富岡製糸場を設立、生糸が大量生産されるようになった。明治時代から昭和時代(1926-1989)中期にかけて、群馬県を含む日本各地で生糸が生産され、1930年代には世界の生糸の輸出量の80%を日本が占めるほどになった。

「日本の絹産業は、日本の近代化に大きく貢献しました」と群馬県企画部の井上昌美氏は言う。「日本の絹産業において、他の地域にはない群馬県の特徴は、養蚕、製糸、織物の産地がすべて揃っていることです。そして、絹生産で中心的な役割を担ってきたのが女性なのです」

群馬県の養蚕農家では、蚕の飼育の指揮を執るのは主に女性であった。さらに彼女たちは各家庭にある手織りの道具を使って着物も作った。富岡製糸場でも多くの女性工員が生糸作りに従事していた。男性に比べて、女性の指は細いので、製糸や織物の繊細な作業に向いていたことが理由の一つであった。一方、男性は力が必要な作業や機械の管理などを行い、仕事を支えた。

明治時代以降、そうした群馬の女性の活躍が日本で広く知られるようになり、群馬は「かかあ天下」の地域として人々に認識されるようになった。「かかあ天下」は、一般的には妻が夫よりも強い立場にある家庭という意味であるが、群馬では少し意味が違うようだ。

「日本で女性の地位が低かった時代においても、群馬で絹産業に関わる家庭では、妻も夫も平等に家事や仕事を行っていたのです」と井上氏は言う。「それが、他の地域の人々からすると、妻が夫を尻に敷いているように見えたのでしょう。それに対して、群馬の男性は『おれのかかあは天下一』と自慢したのです」

群馬県では現在でも、養蚕、製糸、織物の伝統が受け継がれている。例えば、群馬県北部の六合赤岩には、明治時代に建てられた養蚕農家の建物が残されており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。ここでは、伝統的な方法で、生糸や織物を作る当時の作業の様子を見学できる。

桐生市では、1934年に絹織物の協同組合事務所として建てられた桐生織物会館旧館で、絹織物販売や織機の展示が行われている。また、旧織物工場を利用した織物参考館「紫」では、染色や手織を体験できる。そして、1870年創業の後藤織物では、明治から昭和初期に建てられた木造の工場の見学が可能だ。工場では今でも、着物の帯が熟練の女性工員によって織り上げられている。

「政府は現在、女性が輝く社会の実現を掲げていますが、群馬の絹産業では、古くから女性が輝いていました」と井上氏は言う。「これからも、女性が活躍した群馬の絹産業の歴史を、後世に伝えていきたいです」