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今も前進を続ける鋳物師屋: 菊地保寿堂(仮訳)

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山形県に本拠を構える、何百年もの歴史を誇る鋳物師屋が作り続ける実用的で美しい製品は、今日世界中で称賛されている。ギャビン・ブレアが報告する。

山形市の菊地保寿堂は、代々日本の伝統的な鉄製のティーポットを製造している。現社長である菊地規泰氏は第15世代目にあたる。

「書き残された資料によると、菊地保寿堂の起源は1604年にまで遡ることができます。その年に菊地喜平治が17名の者とともに鋳物製品の製造を開始したとあります。しかし、実際の発祥は、1604年よりもはるか前に遡ります。」現社長である菊地規泰氏は、このように語っている。菊地規泰氏は、父親の死により僅か23歳で家業を引き継いだ。

菊地保寿堂は当初、鉄製のろうそく立てやその他神社向け製品の製造で有名だったが、その後ティーポットや酒容器など日用品の製造に進出していった。

菊地規泰氏は次のように語っている。「当時、製造にあたっては、外見の美しさだけでなく実用性が重視されました。例えば、ティーポットの場合、材質が鉄であっても、軽量であることが求められました。注ぐときに重過ぎて残量が分からないようなことがあってはなりませんから。また、お茶やお酒の味を引き立たせることができるものでなければなりませんでした。」

第二次世界大戦の頃には、菊地保寿堂の金属加工技術は、世間一般に広く知られるようになっていた。実際、その腕前は、日本帝国陸軍から手榴弾の製造を命じられるほどだった。

終戦後、菊地保寿堂は本業に立ち返り、今では世界12ヵ国の専門店を通じてティーポットを始めとする鋳物製品を販売している。しかしながら、現在、製品の一部をウェブサイトのグローバル・セクションに掲載するのを停止している。一部の国でデザインが模倣されていることがわかったからである。

菊地保寿堂は、販売チャンネルのためにテクノロジーやグローバリゼーションを受け入れているが、ビジネスのやり方は多くの点においてこの400年余り殆ど変わっていない。精錬技術そして鋳造技術は、今も昔と変わらない。それは、ある種の徒弟制度を通じて、先輩職人から見習い職人へ受け継がれていく。技術習得のための見習い期間は最長10年にも及ぶ。

「菊地保寿堂のルーツは、侍と禅の哲学にあります。私たちが作る製品は、そうした哲学を体現したものになっています。例えば、単純なことですが、ティーポットの注ぎ口は切れがよく、注いだ後にお茶が滴り落ちないような工夫がされています。明日命を落とすかもしれない侍にとって、全ての点で完璧さを求めることが、まさに彼らの生き方でした。」菊地規泰氏は誇りをもってこのように語っている。

菊地保寿堂が製造するティーポットの握り部分は、日本の侍が使っていた刀からインスピレーションを得ている。

現代風なテイストをプラスしたり、海外市場での販売を念頭において製品を更新する場合でも、菊地保寿堂ブランドの伝統的なエッセンスと職人技を決定づける要素の多くについては、あえて手を加えたりはしない。例えば、5600円で販売されている、ブライトカラーの正方形の形をした鉄製のティーポットがその好例である。デザインが角のあるものでも、コーナーには柔らかい曲線で丸みを持たせ、お茶を楽しむ人が鋭角で傷つくことがないように配慮されている。これは、菊地規泰氏によれば、茶道やコミュニケーション・ツールとしてのその目的から着想を得ている。

近年、菊地保寿堂は、アルミニウムを素材として利用し始めた。再生利用缶から創作した印象的な平皿や食器は現在、永久保存作品(パーマネント・コレクション)の一部としてニューヨーク近代美術館に収蔵されている。

菊地保寿堂は、1990年代以降、多くの「現代的な」企業に先駆けて、環境へ負荷のかからないやさしい製造技術の利用に努めている。

「コストが高くついても、私たちが素材として使う鉄の半分はリサイクル鉄です。また、1990年以降、二酸化炭素排出量を30%削減しています。」菊地規泰氏は、続けて次のように語っている。「政府は、25%の削減を求めていますが、私たちは既にそれ以上の二酸化炭素排出量の削減を1990年に達成しています。」

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