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Highlighting JAPAN

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特集世界遺産──日本文化をのぞく

世界とつながる日本の世界遺産(仮訳)

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世界遺産は、世界の人々が日本の自然、文化、歴史を知る窓口となっている。そうした日本の世界遺産の魅力に引き寄せられ、日本に留まる外国人も少なくない。外国人の目から見た世界遺産の屋久島、熊野古道、平泉を松原敏雄とジャパンジャーナルが報告する。

屋久杉の楽園

「屋久島では一ヶ月で35日雨が降る」

そのように表現されるほど、屋久島では雨が多い。年間の降雨量は4500ミリを超え(東京は約1500ミリ)、日本で最も雨の多い地域の一つだ。その豊かな雨が、屋久島の多様な自然を育んでいる。標高500メートルを超える山地には、樹齢1000年以上の屋久杉が森となり、水量豊かな川、断崖から落ちる滝といった景観を作っている。人里を離れれば、群れをなしたヤクザルや立派な角を持ったヤクシカと出会える。また、屋久島は北太平洋最大のアオウミガメの産卵地になっており、5〜8月にかけて浜では、カメが産卵する姿を見ることも出来る。

「屋久島は驚くほど美しい島です。少しでも横道を入れば、美しい川の流れ、自然のプール、連続する滝、杉の森など、非常に素晴らし自然と出会えます」とアメリカ人のウィリアム・ブラワー氏は言う。ブラワー氏は、アメリカで25年にわたり家具のデザイン・制作、建築の増改築に携わってきたが、たまたま屋久島の写真集を見たことがきっかけで日本人の妻と島を訪れ、その自然に魅了された。そして、偶然にも、屋久島が世界遺産に登録された1993年から、妻と生まれたばかりの息子の3人で島での生活を始めた。

屋久島での最初の仕事は工房と自宅作りだった。自ら木を切り、基礎を作り、約11ヶ月かけて自宅を建てた。屋久島の杉がふんだんに使われた家からは、美しい海が一望出来る。また、海辺から拾った石を敷き詰めた大きなお風呂もある。自宅を造った後、敷地内にはさらに、妻のための図書室、工房、妻の両親の家、デザイン・スタジオなどを建て増した。

「私はいつも日が昇る少し前に起きるのですが、この家から眺める夜明けの景色は本当に美しいです。夜も大好きです。驚くほど多く星が輝き、月の光で手紙を書くことが出来るほど明るいのです」とブラワー氏は言う。「天候は厳しいときもありますが、自然が豊かで、子どもを育てる場所としても理想的です」

ブラワー氏の仕事は、個人の住宅、レストランなどの建物の設計・施工、家具の制作などだ。通常の建築家は建物の設計しか行わないが、彼は、手がけるほとんどの建物の施工も行っている。屋久島で彼の造る建物の特徴は、屋久島の自然にとけ込むようなデザインをした木造建築であることだ。家の中からでも屋久島の海、川、森などの自然が楽しめるように、家の形、窓の位置・大きさに工夫を凝らす。

ブラワー氏は現在、屋久島だけではなく、島外の鹿児島市内で建設中の高齢者施設の設計も行っている。

「これから、島民の高齢化が進んでいますが、島の外から移住してくる高齢者も増えると思います。将来は、屋久島内でも高齢者の施設を建てたいです」とブラワー氏は言う。


熊野古道:人々をつなぐ巡礼の路

2004年に世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」は、「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」という3つの霊場と、それらを結ぶ「熊野参詣道」(通常、「熊野古道」と呼ばれる)、「大峯奥駆道」、「高野山町石道」という3つの参詣道が登録資産となっている。

本州の中西部に位置する近畿地方の三重、奈良、和歌山の三県にまたがる紀伊山地は、太平洋に張り出した紀伊半島の大部分を占め、うっそうとした木々が生い茂る山地だ。8世紀ごろには既に、この地は熊野と呼ばれていたと言われている。熊野は、神々が鎮まる特別な場所とされ、古くから人々の信仰を集めており、その中心地が熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の「熊野三山」だ。9世紀ごろから貴族や武士、さらには庶民まで数多くの人々が、京都や大阪や名古屋から「熊野古道」を通り、熊野三山を目指すようになる。人々は、熊野速玉大社で前世の罪を浄め、熊野那智大社で現世の縁を結び、熊野本宮大社で来世を救済されると信じていたのだ。その賑わいは、巡礼者が道に連なる様子から「蟻の熊野詣」と例えられるほどだった。

世界遺産登録を契機に、熊野古道に対する国内外の人々の理解を深める活動が各自治体を中心に活発化している。そうした活動を行っている組織の一つが、2006年に和歌山県田辺市が設立した「田辺市熊野ツーリズムビューロー」だ。

「私は世界中の山岳環境を訪れていますが、熊野地域は本当に特別な雰囲気があります」とツーリズムビューローの国際観光プローモーション事業部長であるカナダ人のブラッド・トウル氏は言う。「特に私が惹かれるのは、熊野古道では、人々の生活、文化、信仰が密接にからみ合い、独特の文化的景観を生み出している点です」

トウル氏は1999年から3年間この地で英語教師の助手として勤務していたことがきっかけとなり、その創立からツーリズムビューローで働いている。

ツーリズムビューローはこれまで、世界に開かれた質の高い、持続的な観光地を作るための様々な取り組みを重ねている。その一つが、「着地型観光」の導入だ。この、ユニークな、コミュニティをベースとした観光モデルは、地域の人々の生活、文化、産業を、観光客が体験する観光である。同団体は、宿、バス会社、神社、自治体などの関係者を対象にワークショップを続け、外国人観光客をどのようにもてなすべきかを地元の人々と議論した。

「時に、サービスの提供者は非常にフレンドリーで、ゲストのニーズに合わせ過ぎるときがあります。それはかえって、この地域を訪れる意味を失わせてしまうかもしれないのです」とトウル氏は言う。「地域の文化を守ることが大切なのです。事実、それが、外国人旅行者が熊野古道で実際に求めていることなのです」

日本語の話せない旅行者、外国語の話せないサービス提供者の間の一つの課題はコミュニケーションだ。このギャップを埋めるために、ツーリズムビューローは、文化的認識の向上、そして、スムーズで効果的なコミュニケーションの手助けとなる通訳シートの作製に、サービス提供者とともに取り組んだ。この、英語と日本語の両方で書かれた「指差しツール」を使用することで、宿の人は、宿の施設をどのように使うかを外国人宿泊客に伝えることが出来る。また、ツーリズムビューローは、日本語と英語で簡単に宿、アクティビティ、旅行サービスの予約が出来るオンラインのシステムも構築した。これらの取り組みは国際的にも評価され、賞を受けた。

こうした結果、熊野古道を訪れる外国人観光客の数は、この7年間で3倍にまでアップした。

2008年には同じ巡礼路として世界文化遺産に登録されているスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラと田辺市が提携を結び、ジョイントプロモーションを続けている。そうした効果もあり、スペインから熊野古道を訪れる旅行者や、サンティアゴ・デ・コンポステーラを訪れた後、熊野を訪れる旅行者も増えている。2013年は、日本とスペインの交流400周年の年ということもあり、共同でのイベントも計画している。

「田辺市は2015年に、世界遺産未登録地域の追加登録を目指しています」とトウル氏は言う。「世界遺産に登録されていない地域を含め、熊野古道の補修や維持は重要です。将来の世代が、日本のスピリチュラル・ルートを体験するために、熊野古道のすべての道が、再生され保存されることを希望しています」


平泉の源流を探る

岩手県の平泉は、12世紀に武家である奥州藤原氏が本拠地を構え、約100年にわたって栄えた地域である。この地に残る、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山など、奥州藤原氏が発展させた浄土思想に基づいて造られた寺院や庭園の一群は、2011年に、「平泉—仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、世界遺産に登録された。

「平泉の魅力、価値の一つは、その文化が東アジアの国際交流の中で形成されたことにあります」と岩手大学平泉文化研究センターの劉海宇特任准教授は言う。「特に、平泉の庭園の遺跡には、そうした特徴が非常に良く残されています」

中国の青島出身の劉氏は中国考古学の専門家で、2005年頃から、日本人研究者との共同調査、中国語での平泉に研究に関する論文の発表、中国人研究者の平泉への招へいなど、精力的に活動、平泉の世界遺産登録を支援してきた。2012年10月からは、平泉文化研究センターで平泉と古代中国の庭園の比較研究を行っている。

中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡にはそれぞれ、浄土を現世に表現したと言われる浄土庭園がある。平泉の浄土庭園は、直接は、京都の庭園を学び作られているが、古代中国の庭園の影響も垣間見ることが出来る。例えば、毛越寺にある大泉ヶ池では現在、一部で池の水を抜いて調査が行われているが、池底から1m程の大きさの「かもめ石」(貝が穴を空けた石)がいくつか姿を現した。通常は海辺にしかないかもめ石が池にあるのは、池を海と見立てて庭園を造るためと劉氏は考えている。池を海と見立てて庭に造るというアイデアはもともと、中国の古代で生まれたと言われているのだ。

「古代中国の庭園の遺跡は、ほとんど残っていないのですが、平泉にはその時代の様式を伝える庭園の遺跡が、非常に良い状態で残されています」と劉氏は言う。「平泉の庭園の研究は、古代中国の庭園を研究するうえでも、非常に重要なのです」

平泉では現在も発掘調査が行われており、中国と藤原氏との関係を裏付ける貴重な遺物が発見されている。例えば、中国産の陶磁器だ。その多くは12世紀後半のもので、中国との貿易により、九州から京都を経て、平泉へともたらされた。当時、日本で極めて貴重だった陶磁器を藤原氏が持っていたことは、いかに藤原氏が権勢を誇っていたかの証明とも言える。一方、平泉からは金が中国へと輸出されていたという。

中国は今、中央アジアを通るシルクロードを世界遺産に申請する準備を進めているが、古代から中国と海外との貿易航路の起点であった8つの港町の遺跡を「海上シルクロード」として登録することも目指している。世界遺産登録のためには、歴史的重要性を証明する学術的な裏付けが必要だ。そうした点からも、平泉の研究は登録の助けになる。

「海上シルクロードの終点は、京都と中国人学者は考えていたのですが、今は、多くの学者が、平泉が終点と考えるようになっています」と劉氏は言う。「中国人研究者と日本人研究者との国際的な交流の結果、大きな学問的な成果を得られています」


知床を守る100平方メートル運動

知床半島は、北海道東部、オホーツク海に突き出た半島だ。知床半島は、急峻な山々、海岸断崖、湿原・湖沼、原生林など多様な自然環境を持ち、ヒグマ、アザラシ、オオワシ、シマフクロウなど貴重な動植物の宝庫となっている。この知床半島とその周辺の海を含む約71,000haは、2005年、世界遺産に登録された。

この知床半島において自然保護の原点となっているのが、地元斜里町のイニシアティブで1972年に始まった「しれとこ100平方メートル運動」だ。当時、知床半島は、不動産業者による離農跡地の買収が進み、乱開発の危機にさらされていた。そうした中、イギリスのナショナル・トラスト運動にヒントを得た当時の斜里町の町長が、乱開発を防ぎ、離農跡地での森林回復を目的に、100平方メートル相当分の土地購入費用を全国から寄付を募ったのだ。この「しれとこ100平方メートル運動」は20年にわたって続けられ、国内外から約5万人の寄付により、472haが買い上げられた。買い上げられた土地は、斜里町が永久に保全管理する。この運動によって買い上げられた土地は、知床半島の一部だったが、この運動がきっかけで知床半島のより広い地域の保全という運動へとつながり、知床の世界遺産登録への大きな後押しともなった。

1997年からは、これまでの運動の精神を引き継ぎ、「100平方メートル運動の森・トラスト」が始まっている。これは、既に買い上げた土地とそれに隣接する斜里町の所有地390ha(合計862ha)で、100年先を見据えて、失われた原生林と、減少・消滅した魚類、哺乳動物の復元を目指す運動だ。ここでは、毎年、小中高校生を対象にした自然教室、運動参加者による植樹といった活動も行われている。

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