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Highlighting JAPAN

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特集世界遺産──日本文化をのぞく

新たな世界遺産に向けて(仮訳)

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昨年1月、日本政府はユネスコ世界遺産センターへ、文化遺産として、「富士山」ならびに「武家の古都・鎌倉」の推薦書を提出した。これら資産の文化と歴史の背景を追いながら、松原敏雄が地域の魅力をレポートする。

信仰の山、富士山

日本のほぼ中央にそびえる日本最高峰の富士山(3776m)は、その荘厳で神聖なまでの美しさから、日本の特別な存在として古くから崇められてきた。はるか古代より、富士山は神の宿る山として時代を越えて様々な信仰の対象となってきたのである。その一方で、富士山は浮世絵をはじめとする絵画、文学、詩歌、演劇などの題材ともなり、数多くの芸術作品を生み出す母体となった。

富士山は1707年以来、噴火をしていないが、かつては何度も大きな噴火を起こし、周辺地域に深刻な被害をもたらしていた。

「神社に残されている伝えによれば、すでに紀元前27年には富士山の麓に浅間大神が祀られたといわれています。浅間大神を祀ることによって富士山の噴火を鎮めるよう祈願されたのです。これが富士山本宮浅間大社の起源とされています」と浅間大社の神職である鈴木雅史氏は語る。

浅間大社は富士山信仰と密接なつながりを持つ神社であり、2度にわたる遷座を経て806年に現在の静岡県富士宮市宮町に鎮座された。この地に社殿が建てられた理由は、境内にある湧玉池にあるといわれている。湧玉池は、過去の大噴火によってできた2層の溶岩の隙間から富士山の湧水が流れ込んでおり、その水は富士山の御霊水として古くから崇められている。そして、その水をたたえる湧玉池には、火の神の怒りを聖なる水で抑える霊力があると信じられてきた。池は現在、国指定特別天然記念物に指定されている。

古くは噴火を鎮めるための畏怖の念から始まった信仰は、富士山の噴火が収まるにしたがって、やがて山頂で神様仏様に出会い、その力を得るための富士登山信仰へと変化していく。12世紀には山頂にお堂が建てられ、富士登山信仰の素地となった。14世紀になると修験者による富士登山が盛んになり、表口登山道の起点ともなる浅間大社には隆盛を極めた武将たちも参拝、奉納をするようになった。

なかでも17世紀初めに江戸幕府を開いた将軍の徳川家康は、本殿をはじめ30余棟を造営し、境内一円を整備した。現在では本殿・拝殿・楼門等が残り、本殿は国指定重要文化財に指定されている。また、家康は富士山8合目(3250m)以上を浅間大社の境内と定めており、この8合目から上は今も浅間大社の境内となっている。

富士登山信仰は、この江戸時代(1603~1867)にいよいよ最盛期を迎えた。「富士講」と呼ばれる富士山を信仰する庶民の宗教組織も各地で生まれた。苦しい登山の末に神様仏様の世界である山頂にたどり着き、「死と再生」がかなえられると信じられた。富士登山信仰はそれまでの貴族、武士、修験者から庶民の間へと大きく広がり、噴火口の廻りを祈りながら一周する「お鉢めぐり」という慣わしもこの頃に定着した。

また、富士山信仰に基づいて江戸の町には富士山を模した人工の山や塚が造られようになり、これを「富士塚」と呼んだ。富士山に登ることができない人々は、この富士塚に参拝した。そして、この時期には富士山を描いた浮世絵も高い人気を博するようになっていく。なお、現在でも東京には50以上もの富士塚が残されている。

「江戸時代の記録を見ると、人々は富士山の山頂で御来光を迎えていますが、現在の御来光とは異なり、太陽に背を向けて祈りを捧げています。太陽光が当たると噴火口に現れた霧や雲に自分の影が映り、そこに仏像の後光のような虹の光輪が現れることがあります。いわゆるブロッケン現象です。当時の人々はそれを神様仏様が迎えにいらしたと思い、死と再生を一心に願ったのでしょう」と鈴木氏はいう。


武家の古都・鎌倉

鎌倉は古代から中世への転換期となる12世紀末に、それまでの貴族支配に替わる日本で初めての武家政権である鎌倉幕府が源頼朝によって樹立された場所である。この地に幕府を開いたのは、「三方が山に囲まれ、一方が海に開く」という鎌倉特有の地形が要害の役割を果たすからであり、鎌倉幕府は当時の土木技術を駆使して、平野に造られた京都や奈良とは異なるきわめて特徴的な「武家の古都」を造り上げた。

幕府は山を垂直に掘り下げて「切通」と呼ばれる道を複数の要所に造り、そこを物資の運搬路と同時に防御拠点とした。そして、山稜部とその山裾や谷間を切り開き、重要な神社や寺院、武家館を機能的に配置しながら、山稜部と一体となった固有の寺社景観を持つ政権所在地を形成したのである。

前述のとおり、鎌倉は三方の山に守られるようにして古都が扇形に海に向かって広がり、その扇の起点部には鶴岡八幡宮が鎮座し、武家政権の象徴として、政治・儀礼の重要な舞台となった。神社・寺院・遺跡などの「武家の古都・鎌倉」を構成する重要な要素は、全部で21カ所を数える。

さらには、ここ鎌倉から生み出された武家文化の歴史的価値も、きわめて高い。鎌倉幕府は神道とともに、中国を源流とする禅宗を中核とする仏教を宗教政策の両輪とし、13世紀半ばから禅宗の本格的導入を始めた。日中貿易を活性化させて禅宗とともに中国文化も盛んに取り入れ、鎌倉の寺院は武家の精神修養や学問・文化の取得の場となっていく。そして、詩文学、書道、絵画、彫刻、茶などが、鎌倉を起点に日本全土へと広がっていったのである。

こうした貴重な資産を保護するために、鎌倉市では様々な取り組みを重ねてきた。2004年には「武家の古都・鎌倉」というコンセプトを確立させ、2006年には市民団体・商工団体・教育機関・行政などが一体となった「鎌倉世界遺産登録推進協議会」が設立された。「鎌倉はもともと市民運動の盛んな地域で、緑や景観を守る運動は昔から継続して行われてきたのです」と、市の世界遺産登録推進担当の熊澤隆士氏は語る。

例えば、1964年に鶴岡八幡宮の裏山に宅地造成計画が持ち上がったが、地域ぐるみの反対運動が起きて計画は中止された。土地は募金等によって(財)鎌倉風致保存会に買い上げられ、この運動が契機となって2年後には古都保存法が制定された。法令等によって建物は最大で高さ15メートルまでに規制されるとともに、自動販売機やファストフード店の外観の色づかいも景観を損なわないものに抑えられている。推進協議会は様々な啓発活動を行い、ボランティアによる史跡の清掃をはじめ、学校単位でも美化活動が続けられている。

「鎌倉を自分たちで守っていくという伝統を受け継ぎ、未来につなげていくうえで、世界遺産登録はまちづくりの共通の指針になります。鎌倉は年間1900万人の観光客が訪れるまちで、交通渋滞の緩和など取り組むべき課題があり、そうした課題を解決していくために、“世界遺産にふさわしいまちづくり”を目指して行政と市民が一緒になり活動を進めていく。世界遺産登録は決してゴールではなく、新たなスタート点だと捉えています」

熊澤氏の言葉の通り、車をエリア外に停めて観光客をバスで市内へと誘導するパーク&ライドも、すでに交通実験として進められている。さらに、熊澤氏はこんなコメントを寄せてくれた。

「建長寺の奥から始まるハイキングコースを辿ると、鎌倉市街を一望できる“十王岩”が現れます。まずはそこに立って、三方が山に囲まれた鎌倉独自の地形をご覧になってください。武家の古都とはどんなものなのか、実感としてお分かりいただけると思います」


富岡シルクを世界に

群馬県にある富岡市は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を目指している。

富岡製糸場は1872年に操業を開始した日本最初の国営模範器械製糸場であり、当時は世界最大級の生産規模を誇っていた。製糸場建設にあたっては、フランス人技師のポール・ブリュナを招き、工場建設、洋式の繰糸機械の導入、全国各地から集まった工女への機械製糸の技術指導にあたらせた。

富岡製糸場は日本の近代産業の発展の基礎となる重要な役割を果たし、生糸は輸出における最重要品目となった。ピーク時には輸出総額の80%以上を占めた時期もあり、明治時代末期(1910年前後)には日本は世界一の生糸輸出国になっている。また、日本で開発され、富岡製糸場でも使われていた型の自動繰糸機は、第二次世界大戦後、中国をはじめとする生糸生産国に輸出され、生糸を通した世界との技術交流を生むこととなった。

富岡製糸場の価値は、こうした歴史的・学術的背景に加えて、設立当初の敷地と主な建造物が今なお良好な状態で保存されていることにある。

養蚕農家を応援しながら生糸の生産システムを持続可能なものとするために、2008年に「富岡シルクブランド協議会」が設立された。当協議会では養蚕農家から絹加工業者・販売業者まで、蚕糸・絹業に携わる関係者がグループを形成し、高品質の絹製品の販売・開発に取り組んでいる。

「絹の品質は8割ほどが原料の繭に左右されます。富岡には桑の生育と蚕の飼育に欠かせない、天候及び豊富な水と水はけのよい土壌がそろっています」と富岡市経済環境部農政課の長谷川直純氏は語る。「それに日本が蚕の品種改良を重ねてきたこともあって、富岡では上質の生糸を生産することができるのです」

富岡シルクブランド協議会の取り組みのひとつとして実施したフランス・リヨンで開催されたシルクマーケットへの出展(2008年・2009年)では、その品質はもちろんのこと、生糸からシルク蛋白を取り出して作った石鹸や化粧品などの斬新な製品に注目が集まったという。

「養蚕農家を応援しながら世界遺産登録を目指し、将来的には富岡製糸場内の繰糸機を再び動かして、皆さんに見てもらいたい」と長谷川氏は言う。

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