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Highlighting JAPAN

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世界遺産・富士山

富士山がユネスコ世界遺産に登録 (仮訳)



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富士山は、山梨、静岡両県の大自然にまたがって海抜3,776mの高さで雄大にそびえ、日本の変わらぬ象徴として堂々とした姿を見せている。本年6月22日、富士山は日本で17番目にユネスコの世界遺産として登録が決定し、同月26日正式に登録された。25件の構成資産‐20,702.1ヘクタールの地域に広がる自然の景観や史跡の組み合わせ‐に対して、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」なる登録名称が付けられた。

富士山のユネスコ世界遺産登録までには長い道のりがあった。推薦に当たっての課題の一つは、この山とその周辺地域が、人類共通の遺産としての「顕著で普遍的な価値」を有することを証明することだった。

富士山は、ユネスコが示す文化遺産としての登録基準のうち2つを満たしている。1) 現存するか消滅しているかに関わらず、ある文化的伝統または文明の存在を伝承する物証として無二の存在であるか少なくとも希有な存在であること、 2)顕著な普遍的価値を有する出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品あるいは文学的作品と直接または実質的関連があること。

富士山は、ユネスコ世界遺産委員会によって、これらの基準を満たすと判断され、この山とその周辺地域が信仰の対象および芸術の源泉としての顕著な普遍的価値を有すると判断された。

世界遺産に登録された25の構成資産には、富士山域のほか山中湖と河口湖、忍野八海の湧水群 (富士山の地下水を源とする8つの池)、船津と吉田の胎内樹型群、白糸ノ滝、三保の松原に加えて、「御師住宅」と呼ばれる巡礼者のための宿泊施設、人穴富士講遺跡、そして8つの神社が含まれる。

富士山の世界遺産登録は我々外国人にとっても大きな影響をもたらすであろう。日本の象徴として描かれる日本的で伝統的な富士の山が、もっと身近な存在として人々に浸透していくに違いない。登山の途中で目にする美しく澄んだ景色、至るところで目にする可愛らしい自然植物、地下から湧き出る冷たい水、富士山に行ったことのある旅行者は生き生きとその感動を語ってくれる。日本人がそれほどまでに敬愛する山を一度は自分の目で触れたいと多くの外国人が強く願う。

しかしながら、本年の登録は富士山ユネスコ世界遺産地域の計画と管理に関する包括的な仕組みへの発展の端緒でしかない。これにより、将来的な世代において住民にも旅行者にも期待と感銘をもたらし続けるための富士山の保全を確実に行なうことに繋がるだろう。

これに続く記事は、信仰の対象および芸術の源泉としての富士山の顕著で普遍的な価値を検証し、保全活動の現状と将来を論じ、この地域を訪れるに当たってのいくつか情報を提供するものだ。

外交的なホームラン

近藤誠一氏へのインタビュー(仮訳)

2012年8月1日、近藤誠一氏は66歳にして初めて富士山頂登山という、日本人のほとんどが生涯に一度は体験したい巡礼の旅を決行することとなった。近藤氏は多くの人が選択する吉田ルートを辿り、夜明け直前に山頂に到達した。頂上で目にしたのはご来光であり、太陽の光で空が一気にオレンジ一色に染まり、霧が晴れて眼下に谷が現れるという神秘的な瞬間を体験した。

近藤氏は一人集団から離れ、もう一つの使命について考えていた。頂上のカルデラの周りを歩きながら、雲の合間から駿河湾を見下ろした。はっきりと見えたわけではないが、はるかかなたの海岸近くにひとつの小さな区域があるのがわかった。そこは彼が外交的な役割を果たすはずの場所、三保の松原だ。近藤誠一氏は単なる登山者ではなく、文化庁長官として日本一有名な山をユネスコ世界遺産に登録するという任務があったのだ。

近藤氏と富士山とのつながりが始まったのは幼少期であり、火山の南麓に位置する静岡県沼津の町にある浜で夏休みのほとんどを過ごした。つつましいごく普通の少年だったが、学業に秀でており、やがて外交官になる道を選んだ。ついにはユネスコ大使に任命されたのち、2010年に文化庁長官の座についた。

富士山が世界遺産リストに名を連ねるというのはきわめて大変な課題であった。登録決定権のある委員会が、富士山が重要な文化的資産であり、「顕著な、普遍的な価値」を有することを承認しなければならないが、ユネスコの詰問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、登録に常に厳しい条件を課してくる。

近藤氏は次のように説明している。「ICOMOS委員らは、申請されている場所に文化的価値があることを証明するためには明らかな科学的エビデンスがなければならないとしている。そのICOMOSから、富士山は世界遺産登録にふさわしいが、富士山から45km離れた場所にある松林である三保の松原は除外するべきだと5月に勧告されたときは驚いた。我々は、三保の松原は富士山と不可分の一体をなすものであることを説明せねばならなかった。富士山は古くから、北斎の浮世絵など多くの有名な芸術作品や文学作品のインスピレーションの源であり、こういった作品中で三保の松原は富士山の一部として度々表現されてきた」。
幸いなことに、日本政府による世界遺産登録のための代表者の人選は適切だった。実際、「富士山を世界遺産にする国民会議」会長の中曽根康弘元総理大臣は、富士山が登録されるまで「この世を去る」ことはできないと側近に語ったとまで言われている。これにより気持ちを奮い立たせた近藤氏は、ユネスコ時代の人脈と強い忍耐力を使い、三保の松原は世界遺産の一部に含めなくてはならないと、世界遺産委員会内の様々なオピニオンリーダーを説得した。

近藤氏の外交技術が試されたのは2013年の6月、プノンペンで世界遺産委員会の説得に立ったときのことである。彼は最も反対しそうな代表から説得を始めた。富士山と三保の松原との間には目に見えない繋がりがあり、従って後者は登録されるべきであることを時間をかけて説明した。遂には、近藤氏のトレードマークともいうべき対立的にならずに論じるスタイルで、この委員が異論を唱えないような方向へと持っていった。2番目に説得に当たった委員が賛成投票をするように説得するのに半日かかり、残りの委員たちも大多数の見解に歩調を合わせるようになった。最終的に富士山の登録は満場一致の賛成を得た。まさに日本チームの大勝利である。

近藤氏にとって富士山の世界遺産登録の意義は、個人的にも強いものがあった。2013年5月の初め、詰問機関が富士山を登録するよう勧告したことを知ったとき、入院中の父親の嘉一さんのもとを訪れて、この朗報を伝えた。息子から成功の知らせを聞き、嘉一さんは翌朝息を引き取った。近藤誠一氏にとってほろ苦い瞬間であった。



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