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Highlighting JAPAN

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世界遺産・富士山

「優美さと荘厳さが一体となった孤高の山」(仮訳)

芸術と文化における富士山



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「それは名状することができない偉大な景観であった。それは雪で覆われていた。輝いた太陽の中で凍った銀のように見えた。その荘厳な孤高の姿は、私が1855年1月に見たヒマラヤ山脈の有名なドヴァルギリよりもめざましいとさえ思われた。」

- アメリカ初代駐日領事、タウンゼント・ハリス(1804-1878)

富士山とその周辺地域は、詩人、画家、旅行者を何世代にもわたって生み出してきた。ユネスコへの登録に必要な基準の一つは、富士山が芸術の源泉としての顕著な普遍的価値を反映していなければならないということだ。日本最古の歌集「万葉集」や物語「竹取物語」などでの富士山描写以降、富士の壮大な姿は、日本人にも外国人にも年齢をも問わず感銘を与え、芸術家や詩人の普遍的精神に反映されている。

富士山の最古の描写の一つは、4516首もの和歌からなり、7世紀から8世紀にかけて編まれた和歌集である万葉集 にも見られる。「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」(田子の浦を通って開けたところまで出てみると、高くそびえる富士山の頂上に真っ白な雪が積もっているのが見えた)。別の和歌では、富士山を「天地が分かれた時から」そびえ立つ神聖な山として讃えている。この頃からは、平安時代 (794-1185) の聖徳太子絵伝 (絵画による聖徳太子の伝記) にある紙に描かれたものとしては最古の絵など、絵画にも富士山が描かれるようになった。

12世紀後半に日本における政治の中心地が京都から鎌倉(神奈川県)に移ると、より多くの人々が富士山の南側を通って都同士を結ぶ街道を旅するようになった。これ以降、旅行者や芸術家など多くの人々が富士山の印象を記録し始めた結果、日本人の精神においてより深い象徴的な意味を持つようになった。

14世紀以降、富士山は絵画、文学、工芸、造園、およびその他の芸術分野における一般的な題材として取り上げられ、一般的な日本の象徴となった。大衆文化において人気を博した様々な富士山の表現の中でも、広重 (1797年-1858年) による浮世絵版画の連作である①東海道五拾三次之内 (東海道の53の宿場)と②冨士三十六景 (富士山の36の景観)、および北斎 (1760年頃-1849年) が挿絵を描き、1834年に刊行された絵本、③富嶽百景 (富士山の100の景観) の3つが最も有名だ。静岡には多くの広重作品に触れることのできる静岡市東海道広重美術館がある。「北斎の浮世絵が構図を重視して描く一方で、広重の浮世絵は取材に忠実で、見たままに景観を描くという違いがあります。広重が描く富士山は、より風景画としての印象が強く、多くの人々が広重の浮世絵を通じて各地からの富士の眺めを疑似体験しました」と東海道広重美術館の学芸員である高橋克典氏が教えてくれた。

これらの浮世絵の生き生きとした表現は、後に欧州における新たな「ジャポニズム」運動を担った西洋の数多くの芸術家に影響を与え、その結果富士山は「東洋日本」の象徴として海外でもよく知られた存在となった。富士山の姿は、モネ、ファン・ゴッホ、アンリ・リヴィエールなど、印象派や世紀末芸術家の作品にも影響を与えた。

19世紀に入って海外から多くの旅行者が日本に来はじめると、外国人の探検家、貿易商、外交官などが、この神聖な火山への観光に出かけて富士山の印象を記録するようになった。おそらく、ハリス大使の通訳兼秘書官であったヘンリー・ヒュースケンの言葉「山頂に悠久の白雪をいただき、緑なす日本の国原に、勢威四隣を払ってそびえたつ、この東海の王者に久遠の栄光あれ!」が最も優れた表現といえる。

今日では、富士山は「日本で一番のもの」や「幸運の前兆」と深く関わっている。その結果、他の山に対してもその雄大さを示す基準としてよく使われ (例えば、米国のレーニア山は、「タコマ富士」とも呼ばれる)、また高級な手工芸品から大量生産される日用品や旅行者用装身具に至るまで、富士山の絵画表現が広く用いられている。さらに、日本の銭湯 (公衆浴場) では富士山の壁画が好まれ、多くの庭園では18世紀に大名が行なっていたように小さな富士山が築かれている。

ほぼ完璧で珍しいスコリア丘である富士山の景色の壮大さは、数世紀もの間創造的な試みのテーマとなってきた尊厳や内省、美しさの感覚を人々に吹き込んでいる。火山としては、恐怖や尊敬、畏怖を想起させており、そのことは広く知れ渡っている象徴となった理由の一つであるかもしれない。海外の旅行者が日本を訪れる際には、富士山が花瓶やうちわに描写されているだけではなく、ポピュラーな広告やアートポスター、壁画などに多数描写されているのを目にすることができる。ユネスコによる登録は、このような感覚の源泉としての注目度を高めるのみならず、その荘厳さに伴う高いレベルの完全さを保護する手段を提供する試みなのだ。

引用集

「私は駕籠を止めてそれに見入った。その山は高くそびえて髪飾りのように青い空に突き刺さっていたが、下半分は雲の影に覆われていた。それは中国にある華山の宝石池に咲く白い蓮の花のように美しかった。」

第9回朝鮮通信使の記録官として1719年に日本を訪れたシン・ユーハン (1681年-没年不明)

「古来より知れ渡り神聖にして完全な山、富士山は、巨大な花の中心にあるおしべのようにバラ色に包まれてそびえている。」

フランスの弁護士、ジョルジュ・ブスケ(1846年-1937年)

「日本人も外国人も、芸術家も行楽客も、優美さと荘厳さが一体となった孤高の驚くべき山の前では、皆畏敬の念にひれ伏している。」

著名な日本研究家、バジル・ホール・チェンバレン (1850年-1935年)

「・・・我々は、「比類なき」富士山の美しさを目のあたりにした。それはほとんどが宿屋に隠されていたため地から飛び出して見え、横方向に渦巻いたり広がったりしている雲の上で薄青い空に美しい頭を突き上げているようであった。」

英国の外交官、アーネスト・サトウ (1843年-1929年)

「空の広がりの中に誇り高く突き出している富士の美しさは、日本で最も優雅な景観である。いや本当は、世界でも稀な雄大な景観なのだ。雪のない裾野はおしなべて青いため空と区別できず、人は雪を被り天国にも届く円錐形の山に見入るばかりだ。」

日本研究家兼作家、パトリック・ラフカディオ・ハーン (1850年-1904年)



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