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Highlighting JAPAN

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なぜここに外国人

ボディランゲージ

舞踊でタイの文化を伝える(仮訳)


埼玉県の住宅街の通りの一角にあるワンナシリン・イイダさんの家は外観からすると何の変哲もないように見える。しかし、中に入り、階段を上った2階の大きな部屋は、床が堅い木でできていて、壁の一面には大きな鏡がはめこまれている。
週に3日ほど、ワンナシリンさんがタイの民族舞踊をほとんど日本人で占められた生徒たちに教える時、この小さなホームスタジオは国際交流の憩いの場となる。

タイ北部で生まれ育ったワンナシリンさんは、古典的で民族的な種類のタイの舞踊を日々の生活のあらゆる部分で経験して育った。タイにおいて舞踊は全国を通じて、婚礼や葬儀、店の開店祝い、寺院でさえも願いが叶った人々が神様の力へ感謝するために行われている。

タイのほとんどの子供たちがそうであるように、ワンナシリンさんも小学校でその複雑な手と指のかたち、彼女いわく「指先の技法」やタイ舞踊独特の振り付けを最初に習った。ワンナシリンさんは母親や叔母が舞踊を教えているのを見て、まず舞踊の先生になろうと思ったと言う。彼女はその後小学校を出るとチェンマイの舞踊学校に入学した。

それから彼女は子供の時からの夢を実現し始めたのだ。「中等部の時、私は日本が大好きで、よく日本の漫画や雑誌を読んでいました。日本でタイの舞踊を教えられたら素敵だと思ったんです」と彼女は説明する。文化交流のプログラムでワンナシリンさんは3ヶ月間舞踊の学生として日本に滞在して、日本語や日本の文化を学んだ。1994年に大学を卒業すると、彼女は文化交流を促進するために、1年間日本に移り住み、日本・アジア芸術協会でタイ舞踊を教えた。

その後、プーケットのインターナショナルスクールでタイ舞踊の教師として4年間過ごした後、ワンナシリンさんは日本語を学ぶために2000年に日本に渡り、2001年からは様々なイベントでタイ舞踊を踊るようになる。しかし、彼女が日本の男性と結婚して3人の子供を産むとそれは徐々に難しくなった。

「結婚して子供ができると、自分だけの生活ではなくなるので、私は思うほど踊りを踊れなくなりました」と彼女は回想する。「それでも私は踊りを踊ったり教えたりしたかったので、自分の舞踊学校をつくろうと思ったの」。

「バン ラブーム」と名付けられたワンナシリンさんのスタジオは2010年にオープンし、今では12人ほどの生徒が、東京、埼玉、遠くは茨城からもやって来る。グループの中にはタイと日本の両親たちから生まれた小さな子供も3名ほどいる。ワンナシリンさんは東京周辺でレッスンをしたり、文化的なイベントで踊ったりと忙しく、時には彼女の生徒たちも連れて行って一緒に踊ることもある。

日本語は勉強していても読むことと書くことは大変で、そのような文化的なイベントの準備をするのは時間がかかる。それでも日本の生活は楽しく、フラストレーションを感じないと彼女は話す。「日本はとても清潔で、全体的にとても住みやすい場所」だと言う。ワンナシリンさんは日本の芸術にも魅了されているそうで、「日本の踊りも少し習ったことがあるので、もっと踊ってみたい」と語る。ワンナシリンさんにとって踊りは、国境を越えて彼女自身を表現する言葉なのである。

中等部の時の夢をかなえたワンナシリンさんは、今はもっと大きな夢を抱く。「タイの舞踊をもっと踊って、より多くの日本の人たちにタイ舞踊を知ってもらいたい」と語った。

 



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