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Highlighting JAPAN

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青年海外協力隊50周年

知識の種を復興に生かす(仮訳)

ソロモン諸島に青年海外協力隊として派遣された黒澤長氏は、現在岩手の高校教諭として、生徒たちと共に震災で失った地元産牡蠣の復興に挑戦している。

2011年、東日本大震災が東北地方を襲い、太平洋沿岸は甚大な津波被害を受けた。岩手・宮城の沿岸地域は国内でも有数の優良な漁場で、国際水産業のハブとなる大規模港が数多くあったが、破壊された船や港湾設備が大量に流出した。人も流され、瓦礫の山となった港の惨状に「町じゅうが絶望した」と、青年海外協力隊OBであり、現在は岩手県立宮古水産高校教諭の黒澤長(まさる)氏は、震災当時をそう振り返る。

黒澤氏は現在、生徒たちと共に震災で被害を受けた牡蠣養殖の復興に挑戦するほか、自身が祖父や父から受け継いだ郷土の海に関する情報をまとめて公開するなど、岩手の漁場の再生に尽力している。苦しい道のりだが、「震災でライフラインも施設もなく、『今あるもので精一杯やろう』と取り組むのは協力隊時代と同じ。かつての経験が、いま活きている」と話す。

黒澤氏の協力隊での経験は、1998年、南太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島での「挫折」で幕を開けた。幼い頃から祖父や父に釣りのイロハを厳しく教えられ、水産業の理解と技術に自信のあった黒澤氏は、現地の村人たちに現金収入を得る手段として魚の獲り方を教えるべく派遣された。しかし、村の施設も道具も想像以上に荒れており、気候や生活文化の違いにショックを受けたという。

隊員として結果を残さなければならないと奮起し、地形調査や漁師へのヒアリングを始めたが、頭では現地の海を理解したつもりでも、波に船を煽られて釣り道具一式を海に落とすなど、「ヘマをして現地のベテラン漁師たちに笑われ、それまで自分の技術に自信があったがゆえに、自己嫌悪で眠れない夜が続いた」と振り返る。だが試行錯誤を重ね、やがて村人たち自身も驚くほど魚が獲れるようになっていった。

その傍らで子供たちにサッカーや空手も教え、代わりに子供たちから現地語を教えられるうちに、「お前は村の仲間だ」と冠婚葬祭に呼ばれるほど村へ溶け込んでいった。1年が過ぎた頃に民族紛争が起き、「もっと彼らの力になりたかった」との悔いを胸に次の任地へ移動。しかしガダルカナルでの苦労が懐かしく、日本帰国後もまた海外へ出たいという強い思いを持っていた。

紆余曲折を経て、現在の教職に就いた頃はまだ迷いがあった。子供の人生に影響を与える教育に、深く入りこむ勇気がなかった。だが2011年の震災で「本気になった」という。町は絶望に包まれていたが、季節は巡り、ズタズタになったはずの港にもワカメがつき、魚が入ってくる。「子供たちも成長する。水産高校の生徒たちのためにも、水産を復興せねば」。 

地元の人々や生徒たちと「自分たちに何ができるか」を模索した結果、牡蠣養殖の復活と、その種牡蠣の育成に照準を定めた。養殖用の種牡蠣が宮城の被災で入手不能となり、岩手の牡蠣産業は成立しなくなっていた。「もし岩手で種が獲れれば岩手の水産に革命が起こる」といわれるほど、岩手では60年間ほとんど種牡蠣は獲れず、原因も不明だった。だからこそ、生徒たちと材木を切り出して養殖場となる筏を作り、種牡蠣育成の研究を重ねることを続けている。

「震災をきっかけに岩手の悲願に挑戦する。水産高校で学んだ生徒たちが、大人になってからも郷土のために貢献する心を忘れないでほしい」と黒澤氏は言う。海の偉大さを厳しく教えてくれた祖父や父の大きな影響と、協力隊の体験、そして震災経験が、彼を郷土に根ざした教育者としての覚悟へと導いている。



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