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Highlighting JAPAN

国境の島

長崎県の島々に残る文化財は、日本とアジア大陸との長年にわたる交流を物語っている。

日本は大小約6,800の島々から成るが、長崎県は日本の47都道府県の中で最も多い971の島がある。その中でも、日本本土とアジア大陸の間に浮かぶ壱岐、対馬、五島列島は古くから、日本と大陸とを結ぶ海上交通の要衝であった。

「日本の西端にある長崎県の島々は、朝鮮半島や大陸の文化が真っ先に入ってくる場所でした」と長崎県文化観光国際部文化振興課の中尾智美氏は言う。「そうした文化の痕跡が、今なお島々に残されています」

福岡県の博多港から高速船で約1時間の壱岐島にある原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、今から約2200年前から1650年前に栄えた集落の跡である。広さ約100ヘクタールの遺跡は、3世紀頃に書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された「一支国」の王都(王が住む都)であったことが特定されている。遺跡からは、日本最古の船着き場の跡や、大陸との交流拠点として栄えたことを示す10万点以上の遺物が出土している。そのうち、中国や朝鮮半島から持ち込まれた貨幣、土器、ガラス玉(とんぼ玉)など1670点が国の重要文化財に指定されている。

「壱岐には広い平野があり、その平野にある原の辻遺跡の周辺は、一支国が栄えた頃を彷彿させる田園風景が広がっています」と中尾氏は言う。

壱岐島からさらに高速船に約1時間乗ると対馬の厳原港に着く。厳原は12世紀頃から江戸時代(1603-1867)の末まで対馬を治めた宗氏の本拠地であった。宗氏は日本と朝鮮との外交交渉の最前線に立つと共に、朝鮮との貿易によって栄えた。朝鮮国からの外交使節団である朝鮮通信使は、江戸時代に計12回来日した。朝鮮通信使はまず対馬に到着し、そこから江戸へと向かった。宗氏は500人余りで構成される朝鮮通信使を迎えるために厳原に広い道路を作り、さらに宗氏の拠点である金石城には、彼らをもてなすために大きな庭園を整備した。

厳原港には「お船江」と呼ばれる船着き場がある。これは17世紀中頃に石を積んで建造されたドックで、対馬藩の船を格納、係留していた。満潮時には船が出入りできる程の広さと深さがあり、干潮時には干上がるようになっている。

長崎県立対馬歴史民俗資料館には、宗氏や朝鮮通信使に関する資料や文化財が展示されており、年間10万人が訪れる。資料館には、「朝鮮国信使絵巻」(レプリカ)も展示されている。江戸時代に描かれたといわれる、全長約16メートル、幅約27センチの絵巻には、朝鮮通信使や彼らを先導、警護する対馬藩の武士などが色彩豊かに描かれている。

こうした文化だけではなく、対馬は自然も豊かである。原生林が残る緑濃い山々と青い海が美しい景観を生み出している。上見坂展望台からは、リアス式海岸である浅芽湾が眼下に広がっている。

「国境の島なので、緊張状態に置かれる時代もありました」と中尾氏は言う。「そのような時代を乗り越えて、根底ではアジアの国々と深くつながり、交流が続けられてきたことを、様々な文化財を通じて多くの人に知って頂きたいです」