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Highlighting JAPAN

茶筌の道

500年前に作られはじめた奈良県の高山茶筌は、今日でも茶道の師匠に選ばれる茶筌であり続けている。

湯通しされた長さ12センチの竹に小刀を使って切込みが入れるたびに、ぴしりと竹が割れる鋭い音が畳の部屋に響く。慣れない人の手ではバラバラの裂片になってしまうところだが、茶筌を作って36年の久保恭典氏の技術は機械のように正確だ。

小刀の柄を手のひらで2回正確に打って切れ目を入れていく。ほんの数十秒で竹は同じ大きさの16片に小割された。

一つひとつの竹に同じ作業を繰り返す。一打を叩くと同時に短く息を吸い込みながら、素人目にはわからない竹のキメの違いに合わせて微調整を加えていく。

「どれも同じように見えるが、一つひとつの節が異なるように硬さも異なります。」と奈良県高山の茶筌職人の25代目である久保氏は言う。「一つひとつ竹を見て、経験から一打一打力の入れ具合を調整します。茶筌作りはそれがすべてです。作り上げるまでのどの段階も経験がものを言います」

高山は、およそ500年前、室町時代(1336〜1573年)に茶筌や他の茶道具の主要な産地となった。この時代には東山文化と呼ばれる、茶道が主要な役割を担う文化が栄えた。

最初の茶筌は、高山城主の次男、高山民部丞宗砌が、近しい友人であった村田珠光の依頼を受けて作ったと言われている。村田珠光は奈良の称名寺の住職であり、「わび茶」の創始者、そして抹茶の考案者として広く知られている。

城主はその後息子が作った上質な茶筌の製作を臣下に委ねたが、彼らはその製作方法を秘密にしなければならず、日中の勤めを果たした後、夜間に茶筌作りに取り組んだ。

「夜間に作業する習慣は今も高山の多くの工房で続けられています。父は私がここで働き始めた際に夜間の作業を止めました。健康的な習慣ではないと考えていたからです」と久保氏は言う。「工法は秘密とされ、外にもらさないことも重視されていました。これは今なお、父から息子のみに技を伝えることにより守られています」

久保氏が働き始めた当時、高山には50軒の工房があり、何百人もの職人やそのほかの働き手を雇っていた。茶筌製作は産業として拡大し、この小さなコミュニティーはかなり裕福になり、自前の銀行まで持っていた、と久保氏は言う。近年は大量の輸入品の影響を受け、工房の数は18軒まで減っている。

「近年は職人たちが協力して、最高品質の高山茶筌を確実に継承し、若い職人を育てる方策を話し合っています」と久保氏は言う。「この日本文化の重要な一端を未来の世代に伝えていこうと決心しています」