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Highlighting JAPAN

スポーツの驚くべき力

競泳種目で15個の金メダルを獲得し、今年夏、5度目のパラリンピックにも出場する成田真由美選手は、スポーツの驚くべき力を発揮させてきた。

成田真由美選手(45)は子供の頃からスポーツが大好きであったが、水泳は苦手だった。中学生の時に病気が原因で、車いすが必要な生活となった後も、陸上など様々なスポーツを楽しんでいたが、水泳には挑戦する気持ちはなかった。しかし、23歳の時、スポーツ仲間から水泳大会のリレーのメンバーに誘われたことがきっかけとなり、水泳を始めた。

「最初、水の中に入ることが怖かったですが、泳いでいると『水の中は自由だ!』と感じたのです」と成田選手は言う。「それから、水泳が中心の生活が始まりました」

成田選手は、泳ぎ始めてから約1か月後に出場し初優勝した大会の帰路、追突事故に巻き込まれて5か月間入院した。しかし、退院後に直ぐに練習を再開、1996年のアトランタ・パラリンピックに出場を果たし、金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル1個を獲得。その後も、病気の手術や入院を繰り返しながらも、2000年のシドニー、2004年のアテネ、2008年の北京と出場した。4大会で獲得したメダルは合計で金15個、銀3個、銅2個にのぼる。

「スポーツは自分を成長させました。私が泳ぐ姿を見て、励みになるとおっしゃっていただくことも多いです。また、そうした人々の応援も私に力を与えてくれます」と成田選手は言う。「スポーツには、言葉に表せないほどの、すごい力があるのです」

成田選手はパラリンピックを通じて、メダルだけではなく、多くの友人も得ている。その中でも、2002年に亡くなったドイツのカイ・エスペンハイン選手は、成田選手のよきライバルであり、親友であった。2004年のアテネパラリンピックの50メートル背泳で、成田選手は金メダルを獲得したが、カイ選手の世界記録は破ることができなかった。成田選手は2005年にカイ選手の故郷であるライプチヒを訪れ、彼女の家族に金メダルを渡している。

「カイがいたからこそ、私はメダルを取ることができたと思います」と成田選手は言う。「彼女の優しい声、パワフルな泳ぎは今でも忘れられません。今も彼女は私の心の中で、生き続けています」

成田選手は北京のパラリンピック後、いったん現役を退き、東京オリンピック・パラリンピック招致委員会理事として招致活動に取り組んだ。東京での開催決定後、2014年に東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に選任され、2020年の大会成功のために、障害者の立場から、様々な提言を行ってきた。そうした活動を行う中で、再びパラリンピック出場への意欲が高まり、2015年に選手として復帰、今年3月にリオデジャネイロのパラリンピックの代表選手の座を勝ち取っている。

さらに、今年5月には、スポーツ・文化・ワールド・フォーラムのアンバサダーに就任した。リオデジャネイロのオリンピック・パラリンピックの後、次の開催地である日本に世界の注目は移っていく。成田選手はそうした機会を活かして、スポーツの素晴らしさだけではなく、食、伝統文化、自然など様々な日本の魅力も海外に発信したいと考えている。

「自然に関して言えば、沖縄の宮古島、東京の新島、長崎の五島列島の福江島の海は本当に美しいですが、海外ではあまり知られていないです」と成田選手は言う。「ガイドブックにはあまり掲載されていない日本も海外の人々に紹介したいです」

パラリンピックに加え成田選手は、一般の健常者の水泳大会であるジャパンマスターズに20歳代の頃から出場している。成田選手は次第に順位を上げてきており、60歳代で8位入賞することが目標である。

自分の活動を通して、人々にとって、スポーツがより身近な存在になって欲しいと成田選手は考えている。

「人間の持つ可能性は本当に大きいと思います」と成田選手は言う。「車いすが必要な人生になったとしても、未来を悲観する必要はまったくないのです」