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Highlighting JAPAN

 

 

教育の変革を担った女性 津田梅子

明治初期、米国で生活し米国式教育と社会生活を直接体験して得た知識を日本に持ち帰るために、日本から3人の少女が派遣された。彼女たちが体験した異文化と後の日本社会への影響を著書に記したジャニス・ニムラさんに話を伺った。

1871年(明治4年)に欧米に向け出発した岩倉使節団が掲げていた目標は、維新で成立した明治新政府を認知させ、不平等条約改正の交渉と、西洋社会の産業、政治、軍事、教育の各制度を調査することだった。

日本の近代化への道を探るため派遣された政治家や留学生の中に3人の少女がいた。その一人が、当時わずか6歳の津田梅子だった。彼女たちが皇后から受けた使命は、日本で女子教育を立ち上げる方法を持ち帰ることであった。

ジャニス・ニムラさんは、このエピソードは東洋と西洋という2つの文化の潮流がぶつかり合い、日本史の中でも興味深い時代を形成している点で明治時代の混乱した特性を要約していると言う。

「明治という時代を、歴史の中で見過ごされがちな女性の観点から検証するために、彼女たちの活躍はまたとない視点だと思いました。少女たちとその非凡な境遇には、日本に興味がなくとも引き込まれてしまうでしょう」とニムラさんは語る。ニムラさんは著書『Daughters of the Samurai: A Journey from East to West and Back(少女たちの明治維新: ふたつの文化を生きた30年)』で彼女たちの異文化間の並々ならぬ経験を描いている。

中でも津田は帰国後、華族女学校で短期間教師を務めた後、再び米国に戻りブリンマー大学に入学した。そのブリンマーの基本理念である、奉仕とリーダーシップが、津田がその後創設した女子英学塾(のちの津田塾大学)の基礎となったと言う。

津田は、6歳という年齢で教育者になることを義務付けられ、言葉もわからない国に送り込まれて10年を過ごすなど、今日では考えられない困難な使命を課せられた。しかし彼女は若さや数々の試練を乗り越え、留学中の1891年にアメリカ留学奨学金を創設、1900年には女子英学塾創立(現・津田塾大学)といった目的を達成した。「課せられた使命を疑うことも、責任の重さに怖気付くこともありませんでした」。津田の信念や使命感の強さをニムラさんは語っている。

「津田は次の世代を教育することが重要だと信じていました。また幅広く長期的な視野を持っており、卓越した行動力を備えた教育の推進者でした。彼女は国際的なネットワークを駆使して社会貢献を実現したロールモデルです」。津田塾大学学長の高橋裕子さんは語る。

高橋さんはまた、奨学金制度を通じて25名の女性が留学を果たしたとも指摘し、「
留学した女性たちはそれぞれの分野で主導的な地位につき、社会に貢献しました」と述べている。社会に貢献するという哲学は今なお、変革を担うことや生涯学び続けることの大切さを学生に説く津田塾大学の基本理念になっている。

「彼女たちの柔軟性、伝統を受け継ぎながら想定外の状況でもそれを活用する能力、教育に対する揺るぎない信念には、誰もが学ぶところがあるでしょう」とニムラさんは言う。少女たちの気概、強固な意志、武士道精神が日本の女子教育を切り開き、東洋と西洋との距離を近づけた。