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Highlighting JAPAN

 

好奇心あふれる女性医師が宇宙飛行士に

日本人の宇宙への飛躍が印象的であった平成。日本人女性初の宇宙飛行士としてスペースシャトルに搭乗した向井千秋さん(現・東京理科大学特任副学長)に、ご自身のキャリアについて伺う。

平成は、多くの日本人宇宙飛行士が誕生した時代であった。1990年(平成2年)に秋山豊寛さん、1992年(平成4年)に毛利衛さんが宇宙へ飛び、1994年(平成6年)7月には日本人女性初の宇宙飛行士・向井千秋さんがスペースシャトル・コロンビア号、そして1998年(平成10年)にはディスカバリー号に搭乗した。心臓外科医から宇宙飛行士への転身も大きな話題となった。現在は東京理科大学の特任副学長として、国際化や女性活躍推進などに携わる向井さんだが、「私はスーパーウーマンじゃない。宇宙飛行士になれたのは宝くじに何枚も当たったようなものです」と爽やかに笑う。

1980年前半、慶應義塾大学病院で同大学出身者初の女性心臓外科医として働いていた向井さんは、当時スペースシャトルの研究飛行に注力していたNASDA(宇宙開発事業団、現在の宇宙航空研究開発機構:JAXA)による搭乗科学技術者募集を見て「自分の目で自分のふるさと地球を見られるチャンスだ」と感じて応募した。日本ではまだ男女雇用機会均等法もない時代だが、募集要項には男性に限るとは書いていなかった。職場の同僚や上司が彼女の立候補に「やはり」と納得するほど好奇心旺盛な努力家だった向井さんは、「必要なのは体力と英語だ」と毎日プールで泳いで体を鍛え、苦手意識の強かった英語も集中的に学び、とうとう選考を突破した。

1986年のチャレンジャー号の爆発事故によってスペースシャトル計画自体が停滞するなどし、向井さんの訓練期間は長期化した。「チャレンジャーの爆発で仲間を失った。人類の科学技術の粋であるスペースシャトルが巨大なオレンジ色の球となって炎上するのを見て膝が震え、科学技術力を過信した人間のおごりが平手打ちを受けたような思いがした。人工衛星が撮影した事故の写真を見ると、フロリダ半島に毛筋ほどの煙が出ているだけ。下から見上げればどんなに巨大なものも、壮大な宇宙から見ればこんなに小さいのだと衝撃を受け、確実に視野が広がった」と向井さんは話す。

向井さんは1994年、1998年の2度の宇宙飛行で様々な生活科学・医学実験に貢献したのち、国際宇宙大学客員教授、JAXA特任参与などを歴任した。日本発の女性宇宙飛行士として大きな注目を浴びたが「女性だから、日本人だから、と考えたことは一度もない。それは自分に逃げ道を作ること。私は自分の属性ではなく努力次第で成功するかしないかが分かれるのだと考えるタイプです」と、向井さんは一貫して明るい口調でポジティブに語り、その姿勢は周囲を元気付ける。自分には医師免許も飛行経験もあるがお金はないから、今後は民間の月旅行の添乗員に雇われたいと冗談めかして話しつつ、「私たちの住所は宇宙。平成は多様性の時代で、様々な能力が花開いた。地球は壮大な宇宙から見ればちっぽけな存在で、人間が仲良く共存しようとする努力がなければ壊れてしまう。それを人々に思い出させてくれるような新時代が来て欲しい」と結んだ。