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October 2022

高浜虚子:季節のうつろいと自然を素直に詠んだ俳人

  • 高浜虚子
  • 虚子が編集発行人として刊行した最初の号となる『ホトトギス』、1898年10月号の表紙
  • 1928年発行『虚子句集』(春秋社)の表紙
  • 兵庫県芦屋市(あしやし)にある虚子記念文学館
高浜虚子

高浜虚子(たかはま きょし。1874〜1959年)は、四季のうつろいや自然の事象を素直に見つめ、客観的な描写による俳句を数多く詠むとともに、俳人の育成にも力を入れた。

虚子が編集発行人として刊行した最初の号となる『ホトトギス』、1898年10月号の表紙

高浜虚子(以下「虚子」)は、1874年、現在の愛媛県松山市に生まれた。中学生の時に同郷の俳人・正岡子規*(1868〜1902年。以下「子規」)に師事して俳句を学ぶようになる。これは、同級生で、後に子規門下で虚子と双璧をなす河東碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873〜1937年。以下、碧梧桐)の紹介であった。「虚子」という俳号は子規が名付けたもの。20歳の時、碧梧桐と共に東京に住む子規を頼って上京。その当時、重い病により自らが人生の最期を迎えようとしていることを悟っていた子規は、俳句の才能を認めた虚子に自分の後継者になってほしいと頼んだが、まだ若かった虚子はこれを受け入れなかった。しかし、子規と虚子との師弟関係は子規が亡くなるまで続いた。

兵庫県芦屋市(あしやし)にある虚子記念文学館

1898年、虚子は、子規の協力で前年に創刊した俳句雑誌『ホトトギス』の編集発行を全面的に引き受けることになる。結果、虚子が手掛けるようになった『ホトトギス』は、俳句だけではなく、小説なども掲載する総合文芸誌になった。

虚子は、『ホトトギス』の編集において、読者から投稿された俳句を選句するようになる。虚子は後に「選は創作なり」と述べている。数多くの句の中から何を選び、どこに着目し、どのように評価するのかは、選ぶ側の審美眼にかかるのであり、立派な創作行為なのだと虚子は言う。彼にとって、俳句を選ぶことは、俳句を詠むこととと同様に創造的な行為だったのである。

虚子が詠んだ俳句の特徴とはどのようなものだったのか。虚子記念文学館の学芸員・小林祐代(さちよ)さんは、こう説明する。

「虚子は、自身の句の主眼は『花鳥諷詠』(かちょうふうえい)と『客観写生』にあると記しています。花鳥諷詠は虚子の造語ですが、春夏秋冬の季節のうつろいや自然界のさまざまな事象を素直に見つめ、敬い、季語を大切にするという俳句創作についての理念です。客観写生とは、自分の主観で物事を表現するよりも、客観的な描写を積み重ねることを通して、作者の心情を浮き彫りにすることとされます」

1928年発行『虚子句集』(春秋社)の表紙

虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても能力を発揮するほか、俳句の入門書を著し、多くの弟子の育成にも努めた。また、まだ俳句を詠む女性が少なかった1910年代から、女性のための句会の開催やホトドキスに女性を対象とした投稿欄を設ける等、女性俳人の育成にも力を入れた。

虚子は、1954年、日本政府から、俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。虚子は生涯で3万を超える句を詠んだという。俳人として長く活躍して、19世紀末から現代へとつながる俳句の世界をけん引し続けた生涯を全うした。

* Highlighting Japan 2022年9月号「正岡子規:俳句を革新した俳人」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202209/202209_12_jp.html



白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか

1925年、51歳の作。季語は「白牡丹」で初夏。虚子の代表的な句の一つである。「白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差している」という意味。白い花を観察している時、少しだけ紅くなっている部分があることに気づく虚子の眼差し(まなざし)に、自然に対する客観的な観察とともに賛美の心も感じられる。



遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな

1900年、26歳の作。季語は「枯野」で冬。「遠い山には冬の日が当たっていて明るいが、目の前には寒々とした枯野が広がっている」という光景を詠んでいる。虚子は、「激しく日が照るような人生も悪くないが煩わしくもある。遠い山の端に日が当たるような静かな景色。それが私の望む人生である」という意味の言葉を記し、「この句によって私の俳句を詠む心境が定まった」と語っている。若い時の句であるが、最晩年に至るまで虚子が繰り返し揮毫(きごう)した句である。



時ものを解決するや春を待つ

第一次世界大戦が勃発した1914年、虚子40歳の作。季語は「春待つ」で冬。この句について虚子は、「なまじ紛糾を解こうと急ぐとますますもつれる。ただ自然にまかせていると月日が経つうちにほぐれてくる。寒い冬の日はじっと耐えて暖かい春の日が来るのを待つことにしよう」と注釈を付けている。虚子の人生観が読み取れる句である。