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September 2022

正岡子規:俳句を革新した俳人

  • 正岡子規
  • 23歳の時に撮影された、野球のユニフォーム姿の子規
  • 1902年、死の直前に子規が描いた草花の絵 (子規記念博物館蔵)
正岡子規

明治時代(1868〜1912年)の俳句界に、伝統を踏まえつつ革新をもたらした正岡子規(1867〜1902年)は、自然や事物をありのままに「写生」する俳句を数多く残した。

23歳の時に撮影された、野球のユニフォーム姿の子規

正岡子規 (以下、子規)は、1867年、現在の愛媛県松山市に生まれた。俳句、随筆、評論など様々な分野で作品を残した子規は、明治時代を代表する文学者の一人である。子規は34歳の若さで他界するが、その短い人生の中で、特に俳句界に与えた影響は計り知れない。

18歳の頃から俳句を作り始めた子規は、20歳代前半から、俳句の創作と並行して、過去の膨大な俳句作品を集め、その分類に没頭した。この研究が俳句革新運動につながっていく。

「子規は時間と労力が必要な地道な研究活動を通じて、これからの俳句が目指すべき道を考え、俳句についての自らの考えをまとめていきました」と松山市立子規記念博物館の学芸員、平岡瑛二(ひらおか えいじ)さんは語る。「1893年、26歳で発表した『芭蕉雑談(ばしょうぞうだん)』では、偉大な俳人・松尾芭蕉 に対する俳句界の崇拝を批判して、当時の俳句界に大きな衝撃を与えました」

子規は、芭蕉の詩情豊かな句風を高く評価する一方、その欠点も指摘。さらにに、芭蕉を神聖化する当時の俳人を、新鮮な着想がなく決まりきった言葉しか使わず、過去の俳句の焼き直しばかり作っていると批判したのだった。

子規は、1895年、28歳の時に発表した『俳諧大要(はいかいたいよう)』の冒頭で「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即すなわち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以って論評し得べし」と述べている。

その上で、子規は文学的に優れた俳句を作るためには、自然や事物を見たままに描写することで自らの感情を表現すべきと主張した。これは、明治時代、ヨーロッパから日本に紹介された西洋美術における写生の考え方に影響を受けたものであった。さらに子規は、その時代の新しい事物をテーマにしたり、従来の俳句にはなかった言葉を使うことも推奨した。例えば、子規は明治時代にアメリカから伝わり、広がった新しいスポーツであるベースボール(野球)をテーマにした句を作っている。

「子規は、俳句が西洋から入ってきた他の文芸や芸術とも渡り合えるようになるべきだと考えたのでしょう。子規が俳句革新運動を起こしたことによって、俳句は近代文学として生まれ変わったと評価されています」と平岡さんは話す。

子規の俳句革新運動は大きな反響を呼び、子規のもとには、その教えを乞う人々が続々と集まった。子規は肺結核を患い、1896年、29歳から病床にあったが、1897年に松山の友人が創刊した俳句雑誌「ほととぎす」(後に「ホトトギス」)を全面的に支援。ホトトギスはその後、東京に発行所を移し、俳句界に大きな影響を与える雑誌となった。

1902年、死の直前に子規が描いた草花の絵 (子規記念博物館蔵)

子規は生涯で約25,000の俳句を残したが、その創作活動は死の直前まで続いた。「病床からながめた庭に咲く草花や、枕元に並べられた身の回りの品々も子規の俳句の重要な題材となりました。子規の俳句を考える上で、この病床生活も切り離せません」と平岡さんは言う。「病床には、いつも多くの友人、知人が集まっており、子規は人間としての魅力にもあふれる人であったことがわかります」

俳句を革新し、近代文学として確立させた子規の功績は、今もなお色褪せることはない。



夏草やベースボールの人遠し

1898年、31歳の作。季語は「夏草」で夏。野球が好きだった子規は野球の句を複数詠んでいる。「野球に興じている人々の姿が、生い茂った夏草の向こう側に見える」という光景を詠んでいる。この頃、子規は歩くことも困難なほど病が進行していたことから、いつか見た野球を病床で思い出して詠んだ俳句と考えられる。



柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

1895年、28歳の作。季語は「柿」で秋。子規の句の中で最もよく知られているもの。子規が静養先の故郷・松山から東京へ戻る途中、奈良で詠んだ句。「秋の日、奈良の茶店で柿を食べながら一休みしていると、ちょうど法隆寺の鐘が鳴る音が聴こえた」という情景を詠んている。子規の大好物であった柿のオレンジ色、甘い味、響く鐘の音という、視覚、味覚、聴覚を一つの句の中で鮮やかに表現している。



いくたびも雪の深さを尋ねけり

1896年、29歳の作。季語は「雪」で冬。既に闘病生活に入っていた子規が、外で雪が降っていると聞き、どのくらい積もったのかと周囲に何度も尋ねる句。自分で起き上がって雪が積もる様子を見ることはできないが、病床の子規の脳裏には、想像の雪が高く降り積もっていたのかもしれない。