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December 2022

日本の家の紋章「家紋」の歴史と特徴

  • 家紋(五七の桐)が施された瓦
  • 桐の花
  • 牛車のイラスト
  • 徳川将軍家の三つ葉葵の紋がついた陣幕の再現品
  • 着物に付いている家紋
  • 暖簾(のれん)に付けられた家紋(梅鉢紋(うめばちもん))
家紋(五七の桐)が施された瓦

ほとんどの日本人の家には、代々伝わる紋章「家紋」がある。日本の「家紋」は、モチーフの豊富さと文様の高い意匠性に最大の特徴がある。

桐の花

現代でも、日本人は冠婚葬祭用の着物や墓石などに、自分の家の家紋を使うことが多い。そのモチーフは、古くから日本で親しまれた植物や動物、星などであり、デザインを細かく分類すると3万種類以上の家紋が存在すると言われている。

家紋が誕生したのは、王朝文化が栄えた平安時代(8世紀後半~12世紀後半)の後半。当時、貴族たちが、自分の所有する牛車 (牛が牽引した車)に独自の文様をつけ、ひと目で誰のものなのかが分かるようにしたことが家紋の始まりとされる。

日本家紋研究会会長の高澤等(たかさわ ひとし)さんは「当時の貴族たちが、それぞれオリジナルの文様を牛車につけたもっとも重要な理由は、路上での礼儀作法のためだったと私は考えています」と話す。「たとえば牛車に乗っているとき、自分よりも地位の高い人の牛車とすれ違ったら、下車して道を譲るか、相手の身分によってはさらに平伏をしなければなりません。そうした路上における作法は後に“路頭礼”(ろとうれい)と呼ばれ、家紋が登場した当時の貴族社会で重視されつつありました」

牛車のイラスト

華やかな暮らしぶりが伝えられる平安時代の貴族たちは、自分の牛車につける文様の優美さや縁起のよさを競い合った。しかし、本来の目的は文様を使って身分や家系、階級を表すことであった。やがて、この文様が“家”や“一族”を表す標章としての家紋に発展していくこととなった。

鎌倉時代(12世紀末~1333年)になり、武士の世になると、戦場で敵と味方を識別し、一族の武功を誇示するため、武家が家紋を使うようになった。それぞれ、武運を上げるものや子孫繁栄などの思いが込められている。実際に、戦場で目立つように陣地に掲げる陣幕や旗、鎧兜にも、こうした家紋が付けられることが多かった。

「貴族の家紋とは違い、もともと、戦場で敵と味方を識別する目的で使われた武家の家紋は、基本、モチーフをシンプルにデザイン化しています。遠目からでも、すぐに分かるように、シンプルでありながら、印象的な、高い意匠性を持っています」と高澤さんは話す。

徳川将軍家の三つ葉葵の紋がついた陣幕の再現品

戦乱の世が終わり、江戸時代(17世紀初頭~19世紀後半半ば)になると、町人も家紋を使うようになった。当時、多くの庶民は苗字を名乗ることを禁止されていたが、家紋を持つことは禁止されていなかったため、家をひと目で識別できる家紋が苗字の代わりに用いられることが多かったという。1868年、江戸時代が終わり、日本は近代化が始まった。1875年、新政府が公布した法令により、原則として公家や武家に限られていた苗字をすべての国民が持つことになった。新たに苗字を名乗るようになると、それを機会に、家紋についても出自に沿った家紋を用いたり、それまで名字を持っていなかった者は土地の名士の助言を得て家紋を設定したりした。また、新たに分家を構えるときには、本家の家紋を丸で囲むなど、少しだけ変えて使われるなどの例も多く、家紋の種類は増えていった。

着物に付いている家紋
暖簾(のれん)に付けられた家紋(梅鉢紋(うめばちもん))

例えば、日本の家紋の典型例として有名な、キリをモチーフとした家紋「桐紋」は、葉の描き方や花弁の個数など、実に多種多様なバリエーションがある。代表的なものとして、花の数が、五、三、五つの順に並んでいる「五三の桐」、五、七、五つの順に並んでいる「五七の桐」と呼ばれているものがある。 日本の家紋は、モチーフの豊富さと文様の高い意匠性に最大の特徴があると言えるだろう。

左から五三の桐の家紋、五七の桐の家紋、鶴をモチーフにした家紋、月に星をモチーフにした家紋、鷹の羽をモチーフにした家紋
さまざまな桐の家紋の例