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Highlighting JAPAN - Public Relations Office, Government of Japan(政府广报室 日本政府)

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被災地でボランティアとして活躍する中国人留学生(仮訳)

Chinese

宮城県仙台市で、在留の外国人向けの日本語教室の開催、留学生支援、市民の国際交流支援などの活動を行っている仙台国際交流協会は、東日本大震災の直後に仙台市災害多言語支援センターを立ち上げ、インターネットやFMラジオ放送を通じ、簡単な日本語、英語、中国語、韓国語による災害情報の発信、電話による問い合わせへの対応、避難所の巡回による外国人の確認などの活動を行ってきた。センターでは職員が約20名、外国人ボランティア約30名で活動に当たった。
ボランティアの一人、東北大学大学院国際文化研究科博士前期課程に在籍している中国人留学生の牛海黎さんは、3月25日に卒業式を迎える予定であった(震災のため、卒業式は中止)。牛さんは4年前に来日、東北大学に入学した。震災前には、仙台国際交流協会による災害時言語ボランティアの研修も受けている。牛さんにジャパンジャーナルの澤地治が話を聞いた。

震災後、ボランティアとしてどのような活動をされたのでしょうか。

地震の時は家にいました。揺れが収まった後すぐ、仙台国際交流協会に向かいました。それから、FMラジオ局に行って、中国語で流す災害情報の録音をしました。その後、センターに戻り、一晩中、国内外からの問い合わせに対応していました。その多くは、仙台近辺に住む家族や友人の安否確認でした。私も家族が非常に心配していたので、彼らの不安な気持ちはよく分かりました。地震の日の夜は停電していたので、懐中電灯の光が頼りでした。震災前に参加した防災訓練で、ラジオと懐中電灯が大切と言われた時、その理由が良く理解できませんでした。今回、停電によって、光だけでなく、情報も得られなくなることが分かり、その重要性を実感しました。
震災の日以降も、数日間は仙台に残って災害情報の翻訳、FM放送で流す災害情報の中国語での録音、避難所の巡回による外国人の確認などを行いました。

震災後も何故、日本にとどまったのでしょうか。

ボランティアとして役に立ちたかったので、直ぐには帰国したくありませんでした。また、仙台市では以前と変わらず仕事を再開している人や、冷静に対処している日本人ボランティアを見て、仙台にいても大丈夫と思いました。中国の母親が非常に心配していたので、3月25日にいったん帰国しましたが、仙台の友人に様子を聞いたりして、仙台は安全だと判断しました。家族からは、余震や原子力発電所の事故が落ちつていていないのでもう少し中国にいるように言われましたが、仙台の人は既に普通に生活していると説明して、4月15日には再び日本に戻りました。日本に戻った後も、戻る前と同じように、センターで安否確認の対応、翻訳などの活動を行いました。

今回の震災、またボランティア活動を通じて、どのようなことを感じましたか?

震災後も、被災地の方は非常に落ち着いていました。必要な物が十分に買えない時もありましたが、皆がそれを我慢して普通に暮らしていることに、とても感動しました。
今回の震災では、多くの日本人の友人に「大丈夫ですか?」と声をかけてもらい、精神的に支えられました。また、ボランティアを通じて、正しく言葉を訳すことの大切さを感じましたので、将来的には、通訳の仕事にも関わりたいと思っています。

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