Home > Highlighting JAPAN > Highlighting JAPAN 2011年5月号 > 日独交流150周年(仮訳)

Highlighting JAPAN

前へ次へ

特集震災復興

日独交流150周年(仮訳)

English

今年、ドイツと日本は修好通商条約調印150周年を迎える。ジャパン・ジャーナルのアレックス・ヘンディーが、フォルカー・シュタンツェル駐日ドイツ連邦共和国大使に、今日の日独関係の特性についてお話をうかがった。

──東日本大震災へのドイツでの反応をお教え下さい。

フォルカー・シュタンツェル大使:ドイツは、地震、津波、そして福島第一原発事故という3重の大惨事に続く事態の展開を衝撃と驚愕を持って受け止めてきました。この事態は多くの悲しみと共感を呼び起こし、ヴルフ連邦大統領およびメルケル連邦首相はベルリンの日本大使館を私的に弔問し、日独両国の外相会議はすでに2回開催されました。独政府は直ちに、総計43名からなる救援チームを派遣し、困難に立ち向かう東北地方の学術機関に対し500万ユーロの支援を約束しました。しかしとりわけ、ドイツの市民社会からの支援の意志は圧倒的でした。2週間のうちに個人からの義援金は1700万ユーロにのぼり、独企業からも数百万ユーロ規模の寄付を行った数社を含め同様の申し出があり、支援総額は5000万ユーロを超えました。

精神的な支援も同じく重要です。今回の災害後、ドイツの独日協会は4月末に奈良で開催を予定していた大きな会議を中止しないことを決定しました。私自身もこの会議に出席し、ドイツ側の参加者は困難な状況にある日本のパートナーたちに、ドイツ人は友人の支えになるという重要なメッセージを送ったと感じています。ドイツにおいては、演奏会、サッカーの親善試合、合同展覧会その他のチャリティイベントが着々と行われ、収益金はすべて3月11日の被災者におくられます。支援の申し出があふれています。たくさんのドイツの家庭から、避難所で暮らす被災者に住まいを提供したいという声さえ寄せられました。

この活発な動きと好意を経験して、私どもは日独の連帯精神を確認し、日独交流150周年を記念する一連のイベントを強化することがベストだという思いをいっそう深めています。地震の影響で、いくつかのイベントは中止せざるを得ませんでしたが、このような絶大な団結と共感の反応を得たからこそ、計画の続行が私たちの義務であるだけでなく、よりいっそう実りある経験になると考えています。参加をご希望してくださる方はぜひ私どものウエブサイトwww.dj150.jpをご覧になり、情報をチェックしてください!

──1861年にドイツが日本と正式な関係を結ぶに至った経緯は?

150年前には、今のような日本とドイツは存在しませんでした。当時のドイツ連邦はおよそ40もの国家から成り、その中の最大国家の1つがプロイセンでした。プロイセンは、当時大陸間海運業が盛んだったドイツ北部の国々のいわば庇護者を自任しており、そのため日本にも具体的な関心を抱いていました。第二の関心は純粋に政治的なものでした。プロイセンはドイツの小国家への支援をめぐりハプスブルク帝国と対立していました。オイレンブルク伯爵が成功裏に(かつ難航の末)日本と通商条約を締結しプロイセンに帰国した際、伯爵は大きな批判にさらされました。なぜなら、日本が「最後」と強調した外国との通商に関するこの条約が、プロイセンとの二国間に限られていた(すなわち小国家は除外されていた)からです。日本側には、軍事大国であるドイツから鉄砲や大砲などを獲得できるという思惑がありました。

しかしながら条約締結後も武器類を含め通商は振るいませんでした。日本は鉄砲を買うだけでは十分でないと悟りました。新しい技術をどう使いこなすかをも学ばなければならなかったのです。そこで日本は外国に教師を派遣しました。彼らはビスマルクによりドイツが統一された経緯に関心を持ちました。今日なお、日本の児童たちはビスマルクの岩倉使節団に対する発言(1872年)について学んでいます。その趣旨は、「両国とも統一の痛みを経験してきた。結局は軍事力と経済発展が物を言うというものです。」この考えは、日本人の自国およびドイツに対する認識だけでなく、ドイツと日本の相互認識の形成にも影響を与えました。

──それで、日本人とドイツ人は統一後間もない国家として共通のアイデンティティを持ったのでしょうか。

19世紀後半までに、日本人学生の留学先はドイツが一番多くなり、日本には、どの国よりもドイツからの専門家が一番多くいました。軍事科学から、法学、医学、哲学、文学、音楽に至る、両国の関心が共通する領域において学び、教えたのです。ですから、19世紀の日本とドイツは極めて特別な関係にあったと言えます。他諸国との関係と比べ、はるかに通商志向が少なく、学術的交流が主体の関係です。これは、今日なお日本人のドイツ観の底流となっています。

同時に、日本人に広く認識されている第二の類似点として、第二次世界大戦後の両国の急速な経済復興が挙げられます。この点において、貿易と投資が両国にとって、国際社会に復帰する道を見いだすために、また、二国間関係を再建するために、重要な役割を果たしました。しかし、ドイツと日本が1945年以降に分かち合った経験は、より包括的なものでした。それはまさしく両国は、経済的、社会的、政治的、そして哲学的、全ての側面において、国を再建したのです。このことが、両国の互いの親近感を非常に強めることになったのです。二国間を結ぶ団体を例にとってみましょう。日本には、そうした団体が59前後あり、二国間団体の数としては日独の団体数が最も多いのです。こうした団体には、民間団体と政府系機関の2つのタイプがあります。

ほんの20年前まで日独交流は個人レベルで行われるのが普通でしたが、今日では組織化が進み、交換留学生や学術交流などはこうした団体を通じて行われています。ですから、市民レベルの交流が深まる一方、組織化された関係も強化されているといえます。

前へ次へ