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Highlighting JAPAN

確かな判断

スリランカから日本、そして世界へ。スジーワ・ウィジャヤナーヤカ氏が、野球がいかに人々を団結させ、世界をより良い場所に変えるか、そして彼自身の人生をいかに変えたかについて語る。

スジーワ・ウィジャヤナーヤカ氏がスポーツを始めるきっかけとなったのは、クリケットだった。バットとボールを使ったスポーツで、彼の母国スリランカでは熱狂的な人気を誇る娯楽だ。スジーワ氏は成長期を通じてクリケットをプレイし続けていたが、次第に他の対象に目を向けるようになった。スリランカでは、野球はそこまで人気のあるスポーツではなかったが、高校で1度だけプレイする機会があった。クリケットに馴染んでいる人にとって、最初はルールがややこしいものだが、スジーワ氏はすぐにそのスポーツの虜となった。彼は強肩を持っていたうえ、サウスポーでもあったため、自然とピッチャーになった。

彼が高校の最終学年を迎えていた年、国際協力機構 (JICA) の野球コーチがやってきたことで、野球を最も愛する国のひとつである日本で野球を見てみたいという彼の気持ちが強まった。彼は当時チームのキャプテンを務めており、卒業後は母校でコーチをし、スリランカ・ナショナルプレイヤーとなってアジア中を周遊し、2004年にタイのバンコクで開催されたベースボールクリニック大会ではピッチャーとしてMVPに選ばれた。その間も、日本のことが彼の頭から離れることはなかった。

2006年、スジーワ氏は大分県の立命館アジア太平洋大学 (APU) で学ぶため、来日した。彼は大学の野球チームでプレイしたが、すぐにそのスポーツの新たな側面である審判を勉強するようになった。「審判は試合にとって本当に重要な存在です」とスジーワ氏は話す。「審判はプレイを左右する人物で、すべてを変えうる存在です」。

2009年、スジーワ氏は少年野球の試合で審判を担当するようになり、2010年にアジア太平洋地域の観光サービスマネージメントの学位を取得してAPUを卒業すると、高校・大学・クラブレベルで審判するようになった。2010年の年末には、あるホテルチェーンのエリアマネージャーとしてフルタイムの仕事をこなしつつ、1年間に100試合も審判するようになっていた。

彼は挑戦することを楽しんだ。「それこそが野球です」と彼は語る。「アキラメナイ――望みを捨ててはいけないのです」。スジーワ氏は審判員試験を受けて見事合格し、国内唯一の外国人公認審判員となった。現在では、アジア野球連盟公認の国際審判員資格も取得し、世界で唯一のスリランカ人国際審判員にもなった。2015年春には、日本において最も人気の高いアマチュアスポーツ大会の一つであり高校野球の頂点を決めるトーナメント、選抜高等学校野球大会(通称「春の甲子園」)で、彼が審判員を務めるという画期的な出来事もあった。

自身のような例は、日本の未来にとって、特に2020年にオリンピック・パラリンピックが東京で開催されようとしていることを考えると、良い兆候だとスジーワ氏は考えている。日本国内で審判員として多忙な日々を送っているほか、スジーワ氏は国際的な活動も多く行っている。外国の人々と友達になり、彼らと話したり学んだりするうえで、野球は良いきっかけになると彼は話す。

「私は日本の人々のおかげでこの場所に立っています。ですから、感謝の気持ちとして、何か人のためになるようなことをしてお返ししたいと思っています」と彼は語る。スジーワ氏は、野球用品を集めてスリランカに送ったり、アジア諸国で野球教室を開催したり、日本からの支援を受け、スリランカ初となるプロ用野球場の建設に尽力したりしている。

スジーワ氏は、日本の支援によって建設されたスリランカ初の野球場で、初の海外イベントとして開催されたパキスタン・イラン・インド・ネパールから国代表の審判員が集まる講習会で、インストラクターを務めたときに起こった出来事を思い返す。講習会が始まった時点では、インドとパキスタンの審判員は完全に分かれていたという。ところが、しばらく経つと、彼らは打ち解けて意見を交換するようになった。

「大変素晴らしい光景でした。国家間では問題を抱えているかもしれませんが、私たちは同じ赤い血を持った同じ人間なのです」と彼は振り返る。「野球で使うボールは一緒です。でも、4つの異なる国から来た4人の審判員と、また別々の2つの国から来たチームが集えば、同じボールを使って6つの異なる国がプレイすることになります。それこそが野球です」。

スジーワ氏は、特定の最終目標を思い描いてはいない。その代わりに、彼はある日本の格言を引用する。「山を登れば、次の山が見えてくる」。彼の次なるプロジェクトは、2012年に建設を手伝ったスリランカの野球場に、スリランカやその周辺地域、また他のアジア諸国の選手たちのため、アジアのトーナメントを招くことだ。彼はスリランカや周辺諸国の野球事情を一変させたいと願っている。「日本へ来てから、私は変わりました」と彼は話す。「そして、他の人々に対しても、その変化のチャンスを与えたいのです」。