Home > Highlighting JAPAN > Highlighting Japan April 2018 > 海洋国家日本:海と日本人

Highlighting JAPAN

竹島と尖閣諸島

2018年1月25日、東京千代田区の日比谷公園の一角に竹島及び尖閣諸島に関する資料等を展示する「領土・主権展示館」がオープンした。

「領土・主権展示館」は政府による初の常設施設であり、島根県隠岐の島町の竹島及び沖縄県石垣市の尖閣諸島が我が国固有の領土であることを示す資料がまとめて紹介されている。日本の領土を巡る情勢が厳しさを増す中、日本の領土・主権を巡る立場について正確な理解が浸透するよう内外発信の拠点として位置付けられている。

以下、竹島及び尖閣諸島について、専門家のコメントを紹介する。


塚本孝・東海大学法学部教授

17世紀、現在の鳥取県米子市の町人が、政府(江戸幕府)の承認の下日本海の鬱陵島(うつりょうとう)とこの島への航路上にある竹島で漁猟を行っていた。1690年代の鬱陵島でのアワビ漁をめぐる日朝間交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡海を禁止したが、竹島への渡海は禁止されなかった。

20世紀初頭、竹島でのアシカ漁を規制する必要が生じたことなどから、1905年、政府は竹島を島根県に編入し、県は、官有地台帳への登録、漁業取締規則の制定・適用など、平穏かつ継続的に行政権を行使した。こうして日本は、竹島に対する近代国際法上の領有権を確実にした。

第二次世界大戦後、韓国は対日平和条約草案を準備していたアメリカに竹島を韓国領とするよう要求したが、アメリカは、竹島は朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく1905年頃から島根県の管轄下にあるとして韓国の要求(1951年7月)を拒否した。このようにして、サンフランシスコ平和条約(1951年9月調印)上、日本の領土に竹島が含まれることが確認された。しかし、条約発効直前の1952年1月18日、韓国は国際法に反して一方的に公海上に線引きを行い、竹島をその範囲に含めてしまう。同月28日、日本政府は韓国に正式に抗議した。韓国は1954年頃から武装要員を常駐させ、灯台を建設するなど既成事実の積み重ねを続けているが、これらは紛争発生後の行為であり、領有権主張の根拠にはならない。

日本は、三度国際司法裁判所への提訴を提案したが、韓国は拒否している。紛争は、力ではなく法によって解決する、それが成熟した国際社会のあるべき姿である。


高良倉吉・琉球大学名誉教授

尖閣諸島について、歴史を踏まえた理解が重要である。

1372年の琉球王国の誕生から1876年の冊封関係廃止まで、琉球王国は中国の明朝、清朝との間でいわゆる朝貢貿易を行い、2年に一度、中国福州を往復しており、琉球の人々は、その航行ルート上にある尖閣諸島を熟知していた。ただし、尖閣諸島は琉球の支配が及んでいなかった。当時の琉球王国は首里王府を中心に離島を統治していたが、無人島である尖閣諸島には行政行為を及ぼす必要がなかったからである。むろん他の国の支配も及んでいなかった。

1885年、無人島開拓のため、沖縄県は調査隊を大東諸島と尖閣諸島に派遣し、先に大東諸島を沖縄県の管轄とした。尖閣諸島については、政府は慎重に調査した上で、10年後の1895年1月14日に沖縄県の管轄とした。大東諸島は1900年に八丈島の人々が入植して製糖業を中心とする開拓が始まり住民が定着した。尖閣諸島は、1896年、福岡県出身の古賀辰四郎によって水産業を中心に開拓が始まった。

こうした歴史的経緯や事実の積み上げにより、立体的な事実関係を明らかにする作業が国際法的にも重要である。「領土・主権展示館」は、これまでの資料調査の成果を示す役割を担う重要な施設であり、「事実に基づいた認識」「客観的な議論」の重要性を訴える場となろう。そうして、我が国の主張や論拠を国民が共有し、さらには、国際社会と共有していくことが重要である。