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Highlighting JAPAN

長く愛される物の形

オーストラリア人の陶芸家ユアン・クレイグさんは、数十年間にわたり、創造性と美しさを実用性と融合する日本の民芸運動の伝統を取り入れながら日本で技術を磨いている。

日本には全国各地に様々な焼き物が存在する。益子焼は栃木県の益子町を産地とする焼き物で、その歴史は江戸時代末期にまで遡る。良質の陶土を産出することや大市場の東京に近いことから、火鉢や水がめ、壺などの日用品が多く作られ、日本を代表する焼き物の産地として発展を遂げてきた。

ユアン・クレイグさんの日本での生活は、栃木県益子町の陶芸コミュニティで始まった。1964年にメルボルンで生まれたユアンさんは、14歳の時に自分の将来を考え、オーストラリアで初めてろくろの前に座った。それは天職というよりも客観的な計算に基づいた選択だった。「私が求めていた仕事は、一生退職せず、 力仕事で体を鍛えられて、手を使い、かつ自分の好きな科学、芸術、哲学を取り入れたものでした」。これらの条件を満たす職業が陶芸だった。

セラミックデザインの学士を取得してベンディゴのラ・トローブ大学を卒業すると、ユアンさんは4年間、スワンヒルで小さな陶芸工房を営んだ。そんな時、日本の友人から益子町の陶芸コミュニティを紹介された。

1990年1月、ユアンさんは人生を変える巡礼の旅に乗り出した。益子町は、益子焼の聖地で、1920年代に民芸運動を主導した濱田庄司氏(人間国宝)の活躍で大きな注目を浴びた。「大学で日本の陶芸と民芸運動について学び、益子町についても知っていたので、絶対に行きたいと思いました」とユアンさんは語る。

ユアンさんは、濱田氏を師とし自身も人間国宝であった島岡達三氏に弟子入りした。来日当時、彼は日本語を一切話せなかったが、日本語を猛勉強しながら、島岡氏の指導の下、「民芸品は、素朴さと日常の実用性のゆえ美しく、民衆が民衆のために作るもの」という民芸の基本的な教えを学んだ。ユアンさんは1994年に開窯し、益子に21年間暮らした。地域にも溶け込み、妻との出会いもあった。日本民藝協会の会員であるユアンさんは、用の美と創造性と工芸の全体論的関係を固く信じている。

2011年の東日本大震災で店と窯が大きな被害を受けると、ユアンさんは家族の安全と暮らしのため群馬県みなかみ町に移転した。現在は古い農家で妻と4人の子どもと暮らしている。家の中には広い工房とギャラリーが作られていて、土間や冬作業のための炉があり、大きな窓からは日光があふれ込む。水は外の井戸からくみ、足踏みろくろを使って作陶する。

ユアンさんの最も自慢の作品は皿などの食器だという。「食事は芸術のように人々を結びつけ、養います。」東京都内のある美術店周辺のレストラン3店とコラボレーションし、特別メニューのために料理に合わせた作品も作っている。2018年11月にはその美術店で25周年記念展を開催する予定である。

ユアンさんはこの節目を嬉しく思いながらも、成功とは別物だと捉えている。「私は美しくシンプルで実用的な物を作りますが、それは人々が生涯毎日使い続け、私がいなくなった後も残り続けます。それこそが、日常生活の芸術です」。彼の作品は多くの人々の日常生活と結びつき、その暮らしを豊かに彩っている。