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Highlighting JAPAN

沖縄のスピリット:エイサー

踊りと歌、お盆の儀式が融合した伝統芸能であるエイサーは、沖縄の夏に欠くことのできない風物詩である。エイサーは、日本の他の地域やハワイを始めとする海外でも踊られている。

打ち付ける太鼓の音と快活な声が、沖縄市・泡瀬漁港に響き渡る。

頭にターバンのような布を巻き、華やかな衣装に身を包んだ太鼓奏者が一斉に足を突き出し、体を旋回させる。綿密に振り付けられたステップに、太鼓のリズムが合いの手を入れる。その後ろでは、浴衣を着た女性の踊り手たちが、しなやかに手を振りながら優雅に舞っている。

観客に混じって、子どもたちも太鼓奏者の力強い動きを真似て踊っている。手に握ったおもちゃの太鼓を小さなバチで叩く。

この夜、シーサー(狛犬)やゴーヤーと並ぶ沖縄の名物であるエイサーを見に、沖縄市には人々が集まっていた。

県内からこの「エイサーナイト」を見に訪れた観客の一人は、「沖縄の夏の音と言えば、エイサーです。エイサーは祭りだと言われますが、沖縄の人々にとってはそれ以上のものです」と言う。

実際にエイサーは、複数のチームが集まり、代わる代わるその腕前を披露する派手な見世物である一方、厳粛な場でも行われる。

エイサーは、ヒンドゥー教のピトゥル・パクシャやキリスト教の死者の日のように、亡き先祖をしのぶ夏の行事であるお盆に欠かせないものである。

お盆は、沖縄では旧盆と呼ばれる太陰暦の7月13日から15日まで行われる。旧盆の日付は、太陽暦では年によって変わるが、おおむね8月中である。

沖縄市エイサー会館の比嘉祐子さんによれば、エイサーの派手な踊りの起源については諸説あるという。

研究者たちは幾つかの説を唱えており、古代から伝わる沖縄固有の風習であるとする者もいる。しかし、有力なのは、死者の魂を鎮めるための民俗的な仏教行事であった「念仏踊り」から発展したとする説である。

エイサーはもともと、1603年に日本の北部に位置する故郷の福島県から来琉し、3年間沖縄に滞在した仏教僧の袋中上人によって、沖縄で広まったと言われる。

数世紀にわたって受け継がれてきた福島県の伝統的な「じゃんがら念仏踊り」にエイサーと共通点があることも、この説を裏付けている。

また、「ニンブチャー」と呼ばれる念仏僧が、葬式などの仏事を通じて念仏の詠唱や歌を広める役割を果したとされている。それらが沖縄に根付くとともに、徐々に踊りと歌、お盆の儀式が融合した伝統芸能の中核を担うようになった。

こうして沖縄では、踊り手がお盆に地域で踊ることが一般的になった。死者を迎え、「ヒーヤーサーサー、ハーイーヤー」と拍子を取りながら踊るのである。そこに1つか2つの太鼓が加わることで悪霊を祓うと比嘉さんは言う。

いずれの説が正しいにしても、エイサーは少なくとも400年から500年前から沖縄文化を構成してきたと比嘉さんの同僚の當眞愛里さんは話す。

比嘉さんと同じく、かつてエイサーの踊り手だった當眞さんによれば、一般的には踊り手は旧盆初日の夜に亡き先祖を迎え、最終日に見送ると、村の集会所に集まって更に踊るというのが伝統であると言う。

「歌にも歌い方にも、そして太鼓のバチの使い方にも、地域によって違いがあります」と當眞さんは言う。

また、時代が進み、エイサーは大きな変化を遂げた。 第二次世界大戦後、沖縄市ではエイサーが「全島エイサーコンクール(現:沖縄全島エイサーまつり)」として年に1回のコンテストとされ、地元青年会のチームが賞を競うようになった。それにより、衣装や踊りはより凝ったものとなり、3本の弦からなる伝統的な「三線」や「四つ竹」と呼ばれるカスタネットのような竹製の楽器、「鉦打ち」に加え、大太鼓や締太鼓など太鼓も増え、エイサーは更に力強さを増していったという。 現在まで衣装と楽器はそのまま残ったものの、賞を競うことはなくなった。

今年も、第64回沖縄全島エイサーまつりが8月に開催され、多くのチームが参加する。中には50名以上のメンバーで構成されるチームもある。

7月のエイサーナイトに参加した19歳の踊り手は、「3歳くらいでエイサーに夢中になり、踊りを試したり真似したりしていました。このようなイベントに参加できるようなレベルになるのには2年ほどかかりましたが、この活気と連帯感が大好きです」と語る。

同じく19歳の踊り手も、誇りを持ち、達成感を感じている。「この暑さの中で踊るので、見た目以上に大変ですが、それだけの価値があります。伝統の継承に役立ちたいと思っています」