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Highlighting JAPAN

人と人とをつなぐ駅伝

複数のメンバーが襷をつなぐ長距離のリレーレースである。日本各地で様々な駅伝大会が開催され、沿道には多くの人が集まり声援を送る。

日本国内において、人気の高い陸上競技の一つに「駅伝」がある。駅伝は日本発祥の長距離レースで、数名の走者がチームを作り、リレー形式で順位を争う団体戦である。現在、国内では、都道府県対抗、企業に所属するチーム対抗、大学を始めとする学校対抗等様々な対抗戦に加え、車椅子での開催もされている。大会によって、総距離、走者数、各走者が走る距離は様々であるが、主な大会は、フルマラソンと同じ42.195キロから約100キロまでの距離を、5〜8名程度のメンバーで走る。

「駅伝は、メンバーの誰か1人が速くてもそのチームが勝てるわけではありません。逆に誰か1人が不調でタイムを落としても他のメンバーが取り戻せば良い。また、長距離戦だから途中順位の変動もあって最後までどこが勝つかわからない。レースの中で様々なドラマが生まれる競技なのです」と公益財団法人・日本陸上競技連盟の関幸生さんは話す。

全国各地で行われる駅伝大会の中でも圧倒的な人気を誇るのが、毎年1月の2日と3日の2日間にわたり開催される「東京箱根間往復大学駅伝競走」、通称「箱根駅伝」である。東京の中心、大手町から出発し、険しい箱根の山を登り芦ノ湖に到達するコースを往復する、10区間217.1キロのレースである。沿道は延べ100万人以上の応援で埋め尽くされ、日本の正月の恒例行事となっている。

駅伝が日本で初めて開催されたのは1917年のことである。京都・東京間の約500㎞を2チーム、それぞれ23名の走者が3日間かけて走り継いだ「東海道駅伝徒歩競走」が始まりである。コースは江戸時代に整備された「東海道」という歴史ある街道であった。日本では古くから、人が走ったり、馬に乗ったりして、街道の各所にある「駅」を中継し、物資や情報を「伝」えていた。そこから意味を取って、このレースで初めて「駅伝」という言葉が用いられたと言われている。

その後、駅伝を競技として日本に広めることに貢献したのが、日本人初のオリンピック選手の金栗四三(1891-1983)である。金栗は1911年のストックホルム・オリンピックのマラソンに出場したが、途中棄権した。この時の無念を基に、帰国した金栗は、日本の長距離ランナーの技術向上のために尽力し、1920年、関東地方の学生による駅伝大会が開催された。これが今も連綿と続く箱根駅伝の第一回大会となった。バトンのかわりに“襷(たすき)”という細長い布の輪を肩からかけて走るスタイルも今日に至るまで変わらない。それぞれのチームカラーの布地にチーム名が入れられた襷は、選手同士の一体感を高める存在である。

「前の走者が身に着けていた襷を受け取り次の走者に『襷をつなぐ』ということが仲間意識を高める。孤独で忍耐を強いられる長距離競技で日本選手の層が厚いのは、日本に駅伝競技があるからだと思います」と関さんは話す。

近年の高校、大学、実業団対抗の駅伝大会では、留学生など海外出身の選手も出場している。特にケニアの選手の活躍は目覚ましく、1988年ソウル・オリンピックでマラソン銀メダルを獲得したダグラス・ワキウリ選手は日本の実業団駅伝チームの出身者である。

「かつては日本で駅伝の国際大会を開いていた時期があり、当時の参加国、例えばフランスなど、今も自国で『EKIDEN』として競技会を継続して開催している国もあります」と関さんは言う。

大規模な駅伝大会だけでなく、家族、学校、地域など小さな単位で駅伝を楽しむこともできる。

「大人と子供の混成チームの家族対抗戦で町内を走るといった小さな規模の大会も楽しそうです。是非、一度、駅伝を体験してみてほしいです。その楽しさがきっとわかると思います」と関さんは話す。

レースの結果だけでなく、襷をつなぐことで、仲間、家族、住民同士の絆を深めることも駅伝の醍醐味であろう。