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  • リヴ・ヴォールトの天井が特徴的な大浦天主堂の内部
  • ステンドグラスを通して差し込む色とりどりの光
  • 長崎県長崎市の丘に立つ大浦天主堂
  • 大浦天主堂の祭壇

November 2020

長崎の丘に立つ教会

長崎県長崎市の丘に立つ大浦天主堂

長崎湾を見下ろす丘に立つ大浦天主堂は、日本におけるキリスト教教会建築を代表する建物である。

大浦天主堂の祭壇

江戸時代の末期、それまで海外との交流、貿易を制限していた幕府が、1858年、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5か国と次々と修好通商条約を締結、翌年には函館、横浜、長崎が貿易港として定められた。これらの港町には外国人が商館や住宅などを建てることを許可された「外国人居留地」が置かれた。

長崎県長崎市の大浦地区もこの一つに当たる。長崎湾を臨む見晴らしの良い丘陵には、当時、洋館の領事館や住宅が建ち並んだ。そこに今も残るのが、1864年、居留地に住む外国人のために建てられた『大浦天主堂』である。大浦天主堂は、日本に現存する最古のカトリックの教会堂で、教会建築として唯一、国宝に指定されている。

真っ白な漆喰(しっくい)が塗られた煉瓦壁の美しい外観が目を惹く現在の姿は、1879年に、創建当時の建物を包み込むように増築されたものだが、建物内部は、創建時の姿がほぼそのまま残されている。

設計は、当時、長崎に赴任したフランス人司祭のフューレとプティジャン神父による。施工は、天草出身の大工の棟梁、小山秀之進が担当した。ゴシック建築様式*をもって設計された大浦天主堂は、高い八角尖塔(はっかくせんとう)を持ち、尖頭式アーチ形の窓にステンドグラスをはめこみ、内部に光を取り込むように設計されている。ゴシック様式の教会堂に特有の高いアーチ状の天井を、欧米によく見られる石ではなく、木の補強材を用いて造作したリヴ・ヴォールト、通称「こうもり天井」から、当時の日本人大工たちの技術力と工夫がしのばれる。

リヴ・ヴォールトの天井が特徴的な大浦天主堂の内部

大浦天主堂保存委員会の施設管理者、田口廣治さんは「天井内部は特殊な編み方の竹組みと土でできています。今の技術でこれを再現するのは難しいです」と語る。ちなみに、大浦天主堂の屋根は江戸時代初期に考案され広く普及した桟瓦**(さんがわら)で葺かれている。

日本へのキリスト教の伝来は、1549年のことであるが、いったん国内に広がったが、江戸時代(1603年~1867年)は禁教となった。創建当時、大浦天主堂は外国人ための教会であったが、建物の正面高くに、日本人にも分かるよう『天主堂』と書かれた額が掲げられていた。これには「250年以上の時を経ても隠れて信仰を持ち続けている日本人がいるかもしれない」という司祭の思いがあったとも言われている。果たして1865年、大浦天主堂を訪れた十数名の日本人がプティジャン神父に「私たちはあなたと同じ心(信仰)を持っています」と告白、この出来事は「信徒発見」としてローマ教皇庁へ報告され、世界に知られることとなる。その後、1873年に禁教が解かれると、長崎各地に潜伏していた信徒たちが次々と現れた。こうした歴史的経緯も一因となって、大浦天主堂は、2018年にユネスコ世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産***」の中核的な施設となっている。

ステンドグラスを通して差し込む色とりどりの光

第二次世界大戦時、長崎には原子爆弾が投下された。爆心地から少し距離のあった大浦天主堂でも、正門や屋根、天井、ステンドグラスなどに甚大な被害を受けた。その後、5年の歳月をかけて修復が行われ、1952年に完了した。戦火を免れた創建時の鐘は、新しく建てた鐘楼に納められた。この鐘は今も毎日、正午と夕方の2回、平和の祈りとともに鳴り続けている。

* 12世紀前半にパリを中心とするフランスで始まり、16世紀に至るまで広くヨーロッパ各地に影響を与えた建築・美術の様式。建築物では大聖堂の尖頭アーチやステンドグラスが特徴。
** 方形で横断面が波形をした瓦
*** 江戸時代250年間の禁教令下における厳しい弾圧の中、宣教師不在でありながら、信者のみで信仰を守り通しながらも、孤立せずに一般社会との関わりも持ちつつ、共同体を存続させるための生き方・暮らし方を創造したことが評価され、2018年ユネスコの世界遺産に登録された。