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INDEX

  • 繰糸所の外観と内観
  • 建物の赤煉瓦
  • 西置繭所内のガラスの多目的ホール

December 2020

日本の近代化モデル「富岡製糸場」

東置繭所

世界遺産である富岡製糸場は、日本の産業史上の転換点を表す記念碑的な文化遺産である。

繰糸所の外観

日本が250年以上の鎖国の後、19世紀中盤に国際貿易を再開した際、蚕種と生糸*は海外での需要が高く、その輸出額の8割以上を占めるようになった。1868年に発足した明治政府は、この貿易に着目し、輸出拡大ために生糸の大量生産に取り組み始めた。明治政府は、当時、製糸業の先進地であったフランスから専門家を招き、機械製糸の技術を導入、1872年に官営模範工場として、現在の群馬県富岡市に、広さ約53,000平方メートルの富岡製糸場を建設したのである。

繰糸所の内観

富岡製糸場には、長さ100メートル以上に及ぶ置繭所2棟、繭を乾燥させる乾燥所、繰糸所、蒸気釜所、鉄水溜(鉄製貯水槽), 下水竇(とう)及び外竇(排水溝)が配置された。その周辺には、外国人専門家や日本人従業員のための住居や寄宿舎、診療所 などが配置された。

置繭所と繰糸所は、幕末にフランス海軍の支援により、現在の神奈川県に建設された横須賀製鉄所の建築と同じ木骨煉瓦造となっている。煉瓦はフランス人技術者の指導で、日本の瓦職人が焼いたものである。日本瓦で葺かれた屋根と、赤煉瓦壁とが美しく調和している。長さ約140メートルの繰糸所の小屋組は部材を三角に組み合わせるトラス構造で、様々な機械を置いたり、何百名もの作業員が働くのに十分な空間をつくりだしている。壁面にはフランスから輸入した大きな鉄枠のガラス窓がはめ込まれ、十分に採光や換気ができるようになっている。また、フランス人専門家と教師のために建てられた宿舎も木骨煉瓦造で、今も残っている。

1893年、富岡製糸場は民間に払い下げとなった。経営は変遷し、最後に富岡製糸場を所有した現・片倉工業株式会社は、1987年、輸入生糸や化繊の台頭により国内の製糸業が衰退したことにより、ついに富岡製糸場の操業を停止。その後も歴史的建造物の維持管理を続けた同社は2005年に建造物を全て富岡市に寄贈、市はその年に公開を開始した。

建物の赤煉瓦

2014年に、「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界遺産一覧表に記載された。同年、置繭所2棟と繰糸所が国宝にも指定された。

富岡市は、富岡製糸場の保存管理計画と30年間の整備活用計画を策定した。

西置繭所

大規模な事業としては最初となる西置繭所の保存整備工事を2015年に着工。2020年に完成すると10月から公開活用を開始した。木骨煉瓦造の骨組みと煉瓦壁はほぼそのままに、また、屋根瓦も約6割は再利用し、建物の保存に必要な修理及び補強、活用のための整備を行った。内部の壁や1階天井に塗られた漆喰は、経年劣化や汚れ・傷がみられるものの、歴史や価値を伝える証としてあえてそのまま残している。

西置繭所内のガラスの多目的ホール

国宝としては珍しい取組であるが、1階内部に、耐震補強のための鉄骨を利用して資料展示室と多目的ホールを整備した。この「ハウス・イン・ハウス」の天井と壁はガラス製なので、ハウスの中に居ながら国宝建物の壁や天井をはっきりと鑑賞することができる。

20世紀初頭、日本は世界一の生糸輸出国にもなった。日本の製糸技術の革新により、貴重で高価だった世界の絹織物は身近なものとなった。西置繭所の壁に残された工員たちの走り書きには、日本の近代化をけん引した当時の製糸業のリアルな雰囲気が感じられる。そうした痕跡もまた、世界遺産富岡製糸場の大切な要素となっている。

* 生糸は昆虫のカイコがつくる繭を原料とする天然繊維。繭から繭糸を繰り出し、数本より合わせ、加工に適した生糸にすることを「製糸」という。