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July 2022

遅咲きの俳人:与謝蕪村

  • 与謝蕪村作の有名な俳画「紫陽花にほととぎす図」(愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦38.7センチメートル、横64.3センチメートル)
  • 与謝蕪村作「富嶽列松図」 (愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦29.6 センチメートル、横 138センチメートル)
  • 学者・栗原 信充(1794-1870)による与謝蕪村の肖像画
  • 与謝蕪村作「薄に鹿図」(愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦129センチメートル、横60センチメートル)
学者・栗原 信充(1794-1870)による与謝蕪村の肖像画

俳人であり、画家としても名をなした与謝蕪村(よさ ぶそん) (1716-1783年)を紹介する。

与謝蕪村作の有名な俳画「紫陽花にほととぎす図」(愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦38.7センチメートル、横64.3センチメートル)

与謝蕪村は1716年、現在の大阪郊外、淀川に近い村で生まれ、いつごろからか絵をかきはじめた。20歳前に江戸(現在の東京)へ出ると、巴人(はじん)という俳人に師事して俳句を学び始めた。しかし、絵の師匠は不明で、独学かともみられている。

蕪村は、日本画の流派である、南画*の画家となり、その絵画の流儀にのっとり、やがて才能を開花させていく。巴人没後、江戸の北部、現在の茨城県や栃木県など)を転々としながら絵の制作に勤しむ。36歳で京都にきた後、他の地域へも赴いたが、42歳になってようやく京都に腰を落ち着けた。そのうち結婚し、娘をもうけた。

与謝蕪村作「富嶽列松図」 (愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦29.6 センチメートル、横 138センチメートル)

「蕪村は、まずは生活の糧として絵を描きました。蕪村にとって絵は、何よりも家族を養うための手立てだったのです。それを「芸術」として評価するのは、周囲の者であり、後世の人々です。ですから、「画家」というよりも、むしろ「絵描き」とか「絵師」というのがふさわしいでしょう」と語るのは、長く蕪村の研究に携わってきた、関西大学名誉教授の藤田真一さんだ。

京都の画壇では、財力ある町人らが蕪村の才能を認め、しばしば絵を依頼し、いわばパトロンとして支えていたといってよい。絵描きとしての地位を築く一方で、蕪村が俳句グループの「宗匠」(そうしょう)の地位についたのは55歳。当時としては老境にさしかかっており、遅咲きの花にみえる。それでも68年の生涯で詠んだ句は3000以上、しかも他に見られない、すばらしい句を数おおく残した。

与謝蕪村作「薄に鹿図」(愛知県美術館(木村定三コレクション)所蔵)(縦129センチメートル、横60センチメートル)

藤田さんは、「蕪村はまず画家として独り立ちすることを目指しましたが、若い頃から俳句を学んでいたこともあり、絵と俳句が相互に影響し合っていたとみてまちがいありません。余技で絵を嗜む俳人はいくらもいますが、蕪村は本格的な画家としてビジュアルに対する、繊細かつ大胆な感覚を培い、それが俳句に投影している。こんな人物は他にいません。こうした蕪村の才能は、俳句と絵を融合させた『俳画』でも、余人の追随を許さぬ、独自の世界を築きました」 

画家の眼で俳句を詠み、俳人の感覚で絵を描く。絵と言葉を自在に行き来する類(たぐい)まれなる才能が生みだした、蕪村作品の数かずは、近代の俳人や詩人たちにも大きな影響を与え、その独自性は時代を超越するものがある。

* 南画は、中国の元(1271-1368)や明(1368-1644)の「南宗画」の影響を受けて18世紀に日本で盛んになった絵画の流派。



春の海 ひねもす のたりのたりかな

1763年頃、蕪村47歳の時の作。季語は「春の海」で、春。とくに著名な蕪村の一句。春の海で波が終日ゆるやかに、のんびりとゆらめいている情景を描き上げ、読む者の心に、おだやかな春の海が広がるような絵を想像させる。画家ならではの眼差し(まなざし)と、俳人ならではの言語感覚とが、両々相まって生みだされた句と言えるだろう。



牡丹散(ちり)て 打ちかさなりぬ 二三片

1769年、蕪村54歳の作。季語は「牡丹」で、夏。豪奢な牡丹の花が咲き誇っている場面そのものではなく、散り落ちた花びらが地面に折り重なっている様子が詠まれている。まさに、過去と現在が一つの句の中で重ね合わせられている。誇らしげに咲く花の姿ではなく、散った花びらを描写しながら、咲いている様子をイメージさせる点で、蕪村の美意識が発揮されているといえるだろう。



身にしむや 亡妻(なきつま)の櫛を 閨(ねや)に踏(ふむ)

1777年、蕪村62歳の作。季語は「身にしむ」で、秋。永年連れそった妻に先立だれた夫が、ふと寝室で妻の遺した櫛を踏んだとたん、生前の妻を追想する。日常の一瞬を鮮やかに切り取り、妻への慕情の念が余情となって奥行を感じさせる句だ。ただし、蕪村は妻に先立たれたわけではなく、小説のようなフィクションとみてよい。