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March 2022

日本の人形の歴史と文化

  • 19世紀に作られた古今雛の例。左:女雛(高さ66.5センチメートル)、右:男雛(高さ57.5センチメートル)。
  • 静岡県富士市の毘沙門天だるま市で販売されている「招き猫」(中央)とだるま
  • 「だるま」を持つ林直輝・日本人形文化研究所所長
  • 18世紀に作られた歌舞伎役者の衣裳人形 (高さ16.2センチメートル)
  • おかっぱ頭で着物を着た、現代の一般的な市松人形
  • 19世紀に作られた歌舞伎役者の伏見人形 (高さ23.8センチメートル)
  • 人間国宝に認定された平田郷陽作の五月人形 (高さ35.5センチメートル)
「だるま」を持つ林直輝・日本人形文化研究所所長

日本では古くから、様々な人形が人々に親しまれてきた。日本人形文化研究所所長の林直輝(はやし なおてる)さんに日本の人形の歴史や特徴について話を伺った。

19世紀に作られた古今雛の例。左:女雛(高さ66.5センチメートル)、右:男雛(高さ57.5センチメートル)。

日本の人形の始まりを教えてください。

日本の人形の始まりの一つは、木や紙などの材料で人の形を作った「人形(ひとがた)」です。日本では、病気や災害などの災いから自らの身を守るために、災いを「人形」に負わせて、川や海に流したり、焼いたりする「厄払い」の風習があります。木の板で作られた「人形」が7世紀の遺跡から出土しており、遅くともこの時代にはこうした風習が始まっていたと考えられています。

これとは別に、玩具としての人形も1000年以上前から存在していました。11世紀初頭に紫式部が貴族社会を舞台にして書いた長編小説「源氏物語」に、女児が「ひいな遊び」と呼ばれる人形を使った遊びを楽しんでいる場面が登場します。この「ひいな遊び」は人形用の小さな家具や家を使い、人形に様々な役を演じさせて遊ぶというもので、現代の子供の人形遊びと同じです。残念ながら、この時代の「ひいな遊び」に使われた人形は残っていませんが、当時の工芸技術の高さを考えると、上流階級の遊び道具として、かなり精巧なものが作られていたのではないか、と推測できます。

現在、3月3日に雛(ひな)人形を飾る雛祭りが行われますが、雛祭りはどのようにして生まれたのでしょうか。

古くから日本では、3月上旬の「上巳(じょうし)」と呼ばれる日に「人形」を用いた厄払いの行事が行われていました。この風習と「ひいな遊び」が時代とともに融合し、雛人形を飾り、女児の健やかな成長を祈る雛祭りとなったと考えられています。16世紀末に宮中で行われた雛祭りが、文献に記録されている最初の雛祭りです。その後、雛祭りは武家の人々に広がり、17世紀前半には一般の人々の間でも行われるようになりました。雛祭りの雛人形は当初、素朴な服装の男女一対の人形でしたが、公家の衣装を着た豪華な人形へと変わっていき、大きさも大型化、飾る人形の数も増えていきます。その中でも、18世紀末に江戸(現在の東京)で作られた「古今雛(こきんびな)」は、当時の一般の人々がイメージする公家の姿を反映した雛人形で、華麗な衣裳と美しい顔立ちで、人気を集めました。

一方、この時代、武家の人々は5月5日の「端午」と呼ばれる日には、兜や旗を家に飾り、男児の健やかな成長を盛大に祝う行事を行っていました。これを一般の人々もならい、歴史上、伝説上で有名な英雄を表した五月人形を飾り、男児の成長を祈る風習が広がりました。このように、雛人形や五月人形を飾る風習が定着した背景には、17世紀初頭から約260年間続く江戸時代には大きな戦乱もなく、人々が文化的な行事を楽しむ精神的、経済的なゆとりが生まれたことがあります。

江戸時代には、他にどのような人形が生まれたのか教えてください。

例えば、衣裳人形が挙げられます。衣裳人形は木や藁(わら)などの材料で作った胴体に、布や紙の衣裳を着せたものです。衣裳人形は、日本の伝統芸能である歌舞伎や能の一場面、一般の人々の日常生活など様々なテーマで作られます。江戸時代には同様なテーマで浮世絵も描かれ、人々に人気でしたが、衣裳人形は言わば「浮世絵の立体版」と言えるでしょう。また、衣裳人形の一種である市松人形は、美男で知られた18世紀の歌舞伎役者である佐野川市松(さのがわ いちまつ)に由来する人形です。現代のアイドルのフィギュアと同じように、当時、市松を似せた人形が作られ、ファンの間で人気を集めたのです。その後、市松人形は、服を着せ替えたり、抱えたりしてかわいがる玩具として広がりました。現在は、市松人形と言えば主に、観賞用に作られた、おかっぱ頭で着物姿の女児の人形を指すようになっています。

18世紀に作られた歌舞伎役者の衣裳人形 (高さ16.2センチメートル)
おかっぱ頭で着物を着た、現代の一般的な市松人形

江戸時代には、全国各地で素朴な人形も作られるようになりました。粘土で作られる土人形はその一つです。その中でも、土人形の元祖と言われるのが、現在も京都の伏見で伝統的な方法で作られている伏見人形です。豊作を願う人々の厚い信仰を集めてきた伏見稲荷大社(Highlighting Japan 2020年10月号参照)近くの土で作られることもあり、伏見人形は京都のお土産品として全国に広がりました。そして、伏見人形を手本にした土人形が各地で作られるようになったのです。雛人形、五月人形、歌舞伎役者の人形など様々な人形が廉価な土人形で作られ、人々に愛好されました。

19世紀に作られた歌舞伎役者の伏見人形 (高さ23.8センチメートル)

仏教僧である達磨(だるまの坐禅姿を模した紙製の人形「だるま」も、子孫繁栄や災難除けの縁起物として18世紀に江戸で作られ始め、やがて全国各地に広がりました。私が住む静岡県富士市もだるまの産地の一つです。富士市では2月に、群馬県高崎市の高崎だるま市、東京都調布市の深大寺だるま市と並ぶ日本三大だるま市の一つ、毘沙門天(びしゃもんてん)だるま市が開催されます。近年だるまは、幸福を招くとされる猫の人形「招き猫」とともに、日本のお土産として外国人にも人気となっています。

静岡県富士市の毘沙門天だるま市で販売されている「招き猫」(中央)とだるま

日本では古くから様々な人形が作られてきましたが、その魅力はどのようなところにあるとお考えでしょうか。

雛人形や五月人形などの人形は特に、伝統的な美術や工芸の粋が集められていると言っても過言ではありません。絵画、彫刻、染織、金工、漆芸、陶芸など様々な分野の素材や技法を活かして作られており、芸術的、工芸的な魅力にあふれています。1955年に国が重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を初めて行った時に、人形作家の平田郷陽(ひらた ごうよう。1903-1981)が、その一人として選ばれました。これは、日本で人形が美術品、工芸品として極めて高い価値があると認められていることの一つの証です。

人間国宝に認定された平田郷陽作の五月人形 (高さ35.5センチメートル)

多くの国では人形と言えば、玩具としての人形を意味します。しかし、日本で人形は古くから、玩具としてだけではなく、美術品や工芸品、そして、「人形(ひとがた)」や雛人形のように、願いを込める対象としても存在してきました。日本では「生き物の形をしたものは粗末にしてはいけない」という考え方が今も根強くあります。大切にしている人形を手放さなければならなくなった時、ゴミとして捨てるのではなく、神社や寺院に人形を渡し、人形の葬儀とも言える「人形供養」をお願いすることが昔から今日に至るまで行われています。

人形供養からも分かるように、日本人にとって人形は、単なるモノではありません。人形は、人々の生活の中で、あたかも生きているかのように扱う特別な存在なのです。それは、日本人と人形との関係を考える上で肝要な点だと思います。